「げんにぬりぬり」自解 ー 現に、間に、弦に(擬音語と擬態語からみる世界)

 この度は、第35期日本現代詩人会詩投稿欄にて、「げんにぬりぬり」という詩を浜江順子さんと雪柳あうこさんに、入選および佳作に選んでいただきました。誠に、ありがとうございます。

 こちらに掲載されております。

https://x.gd/14MkD


 さて今回は、本作品の自解をしようと思います。私もこの詩の一読者として、作者なりの解釈を記しておきます。

 まず、この詩は最近、食品工場の日雇いバイトをした私の実体験の感覚が入っています。具体的には書けませんが、たとえば、不良になった食品・床に落ちた食品を慣れた手つきで廃棄カゴに放り投げる様子。一方で、商品としてカゴに食品を詰める際、「潰れるように置くな」と強く教えられたりする。その様子を見てきました。

 初体験であったため、異国の倫理観を味わった感覚を覚えたのです。「ここでは大事に扱うのかぁ、無下に扱うのかぁ」と。そうして私の中の詩人アンテナが、「フラクタル」を受信し、「もしもこの食品たちが人間だったら」などと、それはそれは単純作業の連続の仕事だったため、創作の取材として心眼カメラでシーンを灼きつけていきました。

 話は変わって、同時期に石原吉郎を読んでおりました。そのため、その時に考えていたこととマッチしたように思えたのです。
 (考えていたことはこちらで↓)

 私たちはいつでも何者かに変身できる、淡くて、「中間的」な存在であるべきだというのが私の価値観です。だからこそ、人間には「間」の字が入っているようにも思う。

 浜江さんは、本作品の「げんに」を「現に」と捉え、選評では同時代の世界のアンチテーゼを見出してくださいました。それも勿論含まれていると思いますし、上記の「間に」とも捉えられるのではないでしょうか。
 要は、バターを塗り、焼き目をつけては私たちの「別の何かに変身する自由」を奪い、商品として送り出す社会。私たちの「中間的」性質を上塗り(「間にぬりぬり」)していく社会が、この小さな空間においても展開されていること。それも秘められているのではないでしょうか。

 さて、綺麗に収まったような解釈ですが、しかし、この詩はここで終わりません。
 上の解釈でいくと、この上塗りを任された「ぼく」という介在者がすべて悪い、とされてしまいそうです。果たして本当にそうでしょうか?

 この介在者、例えば教師という存在は、生徒を社会に送り出すための教育をしていきます。しかしたまに、自称進学校などでは学校の威厳のため、無理な進学を押し付けたりすることもしばしば。すべての教師がすべての生徒の行く末を大事に考えられているとは言えないように思えますが、それはそもそも、現代の学校という労働環境の劣悪さやシステムも知ると、その人たちを強く非難はできません。

 「げんにぬりぬり」は、その「環境の劣悪さ」にも触れているのではないでしょうか。それは、「擬音語」「擬態語」に現れていると思われます。そう。擬音語は最後から二行目、「ゴウゴウゴウゴウ」しか使われておらず、その他は「ぬりぬり」などの「擬態語」で構成されているところが重要なのです。(「ちょん」というのが、調べると拍子木を叩く音と出てきますが、ここでは副詞的用法。)

 普通は、これらの聴こえてくる順序は逆なはず。私たちが初めに工場に入れば、機械の聴き慣れない騒音・特殊音に意識が向いたりします。長時間聴いてしまうと、気が狂うこともありえる。だからといって、「うるさい!」と機械のスイッチを止めることは当然許されない。
 「げんにぬりぬり」ではその不快音に、自分たちの「ぬりぬり」という動作を上塗りしている様も描かれています。その「弦」=「コンベア」が奏でる環境音に、どうにか自分たちも音を奏でながら適応していく。「弦にぬりぬり」

 しかし、「ぼく」は適応しているとも言い難く、「nurinuri」などの気の抜けた擬態語たちとは遠く離れた、「gougou」という力強くおぞましい擬音語がそこには流れている。それを思い出させるのは、「けむくじゃらな生き物」という、背中にバターを塗られないように毛を生やした、上位の存在がフッと現れた瞬間。「ぼく」は正気を取り戻したかのように、コンベアの音を聴き取ってしまう。が、「いつもどおり」。抗えない。
 雪柳さんとはそのリアリズムの点で、最後に「祈り」を加えるか否か、のような違いがあったのかなと、思ったり思わなかったり。いや、逆に雪柳さんはもっと残酷な描写を求めていたのかもしれない。抗えないこと、のさらに奥の恐怖を……?(戦慄)

 と、いう風に、環境に麻痺してしまった「ぼく」が、擬音語と擬態語の使われ方から見えてくる。とも、私は思いました。

 さて、これは工場だけに言えることではない。世界の異音は絶えずどこかしらに流れていて、その根本を正すよりも、感覚を上塗りして適応してしまう人たちがいる。

 なんだか壮大な話になってしまった。そんなこと、言うは易し。私はまだ若い。単なるビッグマウサーだ。安部公房のように、私もこれから何か政治的行動を取っていくとでも言うのだろうか。いやはや、でも、未来は分からない。いずれにしても、何事も中間的でいたいね。そんな態度が、私の今の作品の長所でもあり短所だ。

 ここまで読んでいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら、幸いです。ではまた次回。

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