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特集 教育行政の在日外国人教育「方針・指針」を継承する

M-netの2023年12月号の第一特集は「教育行政の在日外国人教育「方針・指針」を継承する」です。noteでは高橋徹さんによる総論記事を紹介します。M-net本誌では、本特集の記事が他に6本掲載されています。また、第二特集「改定入管法施行前−現場はどうなっているのか−」の記事も3つ掲載されています。目次と購入方法はページ末尾のリンクをご覧ください。(編集記)

総論:忘れられた20世紀の「反差別」

移住連子ども若者プロジェクト・元高校教員高橋徹

教室の中の排外主義を嗅ぎ取る力はありますか?

あるベトナムルーツの女性から電話があった。「先生、日本国籍に変更したいのだけれど、やり方を教えて」。彼女は出産をひかえていた。小学校時代は、カタカナの名前ですごしていて、執拗ないじめに遭った。中学時代にその体験を、さらにベトナム人としての自分を確認するように、生きている自分を語ってくれた。高校時代に日本風の通称名を名のるようになる。出産をひかえた今、産まれてくる子どもに「ベトナムルーツ」の痕跡を残したくないのだ。

「お母さん大嫌い」「日本風の名前に変えたい」。教え子がこう言い出したとき、その裏に差別と、いじめがあることを嗅ぎ取る教員は一体、何人いるだろう。

彼女は日本に来て小学校に編入。定住者→非正規滞在→定住者→永住者。永住者にたどり着いたのは高校卒業後である。図1に見るように、日本の在留資格制度は身分制度のような階層構造になっている。外国人は、入管から示す「ルール(条件)」を一つ一つクリアしながら、より安定な定住者、そして永住者をめざす。ビザを失った「非正規滞在」体験と、学校での「いじめ」体験はトラウマとなって、階層の上に向かって彼女を駆り立てただろう。この駆動圧を図では「同化圧」と記した。大人達のつくった世界に、教室の中は呼応しているようだ。

図1  在留資格によって、分断され階層化された子どもたち。 数字は 18 歳未満の在留者数。

ひとつながりの歴史の中で

私は「オールドカマー」「ニューカマー」というグループ分けを、カテゴリーミステイクと考えている。旧植民地出身者とそれ以外という区分であり、一方の背景は「一様」であり、もう一方は「多様」である。「時代区分」という意味はあるが、それぞれに属する集団を「対等で客観的なグループ分け」として属性や傾向を議論するには、恣意的で科学的ではない。日本社会のマジョリティの心情の中にある根深い排外主義と、戦後の日本の外国人政策の連続した歴史を不用意に二つに分断してしまう。私の危惧は、このカテゴリー分けが「ひとり歩き」すると「オールドカマーの課題とニューカマーの課題は別物だ」というバイアスがかかってしまうことである。

「ニューカマー」の子どもたちに寄り添う仲間達の意識を、1人1人覗くことは出来ない。学校の中の「反差別」が希釈されているように感じるのはなぜか。その背景の一つに、寄り添う教育関係者の中に潜む、根深い「朝鮮人差別」がありはしないか。「いじめ」をキャッチする力が、なぜ弱いのか。無意識のうちに分断して、「オールドカマー」というカテゴリーの中に、自分には関係ないテーマとして放り込んではいないか。

多文化共生教育は押捺拒否から始まった

1947年「外国人登録令」が発布され、1952年「外国人登録法」の制定。そして1955年から指紋押捺制度が開始された。14歳になると、登録の切り替えのたびに「指紋押捺」が義務づけられる。左手のひとさし指を横に回転するという屈辱的な採取法であり、制度の開始直後の1957年ごろから、押捺を拒否する者が現れた。1980年代になって運動として取り組まれるようになる。当初の押捺の開始年齢は14歳であったから、中学生が押捺の直前に拒否するかしないかの決断の時期に当たり、拒否後の子どもたちに、中・高の教員達が寄り添い、押捺制度廃止の運動の輪を広げていった。

粘り強い拒否の戦いの末、2000年に指紋押捺制度は廃止された。しかし、2007年の入管法の改定で「生体情報認証制度」が導入され、特別永住者を除く16才以上の外国人は、日本に入国する際、指紋と顔写真をとられることとなった。「テロリストの入国を防ぐため」というが、事実上の指紋押捺制度の復活であった。しかし、指紋の戦いは、外国人教育(後の多文化共生教育)を担う私たちに、大変重要な「灯り」を残してきた。私たち、教育関係者はこの時から、多文化共生教育につながる道を歩み始めることになる。

反差別・糾弾から連帯と共生へ

差別の「糾弾」は荒々しいイメージがつきまとうが、憎悪による追求は糾弾とは言わない。解放同盟は解放をめざす人間に変わっていくことを求める「教育活動」とした。マジョリティとマイノリティが、語り合い、それぞれが自分の内面を見つめ、新しい自分と他者との関係性を構築し、お互いが自由な人間として止揚する「連帯」への道。「『本名・民族名を呼び名のる』運動の継承」(山根俊彦)であつかう「本名(民族名)を呼び、名のる運動」も、マジョリティとマイノリティが語り合う中で新しい関係を作り出すという方法がここでも追求される。当時の「連帯」という言葉は、今のことばで「共生」と置き換えてみるとよい。現在私たちが「共生」ということばを使うときの気持ちを表すのに、当時は「連帯」ということばが好まれた。「1980年代・90年代の『教育方針・指針』策定運動」(小綿剛)で概観するように「差別の解消は、教育の課題」という共通認識のもとに、地方行政ごとに「教育指針作り」が取り組まれるようになった。

「共生」という名の同化

2006年「地域における多文化共生推進プラン」を総務省は制定した。地方公共団体における「多文化共生の推進に係る指針・計画」の策定に資するためとした。総務省は、このプランを発展させたものを2020年にも制定している。多岐にわたる領域について指針計画が示されているが、教育の課題は「生活支援」という項目の中で「教育機会の確保」として学校での受け入れや、日本語支援、進路指導、多文化共生教育にも言及している。

一方、2019年「日本語教育の推進に関する法律」が公布・施行された。その第1条で、「外国人が日常生活及び社会生活を国民と共に円滑に営むことができる環境の整備」「多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現」「諸外国との交流の促進並びに友好関係の維持及び発展に寄与する」とした。

上記のプランや法律には「人権」「共生」ということばは使われてはいても、子どもたちの「学ぶ権利」についての言及はない。「母語支援」「母語による学習サポート」についての言及はあっても、「母語・母文化保障」についての言及はない。日本語を学ぶ「機会」を与えるだけである。日本語・日本文化を教え、地域社会に溶け込みやすいようにする政策であり共生とはほど遠い。

こうした中、教員向け「手引き(ガイドブック)」が、いくつかの自治体の教育委員会によってしだいにつくられるようになってきた。「外国人児童生徒等受入のための手引」「外国につながる生徒への指導ハンドブック」など。各地の教委の考え方により、内容はさまざまだが、中には首をかしげるものもある。

2023年の4月ごろ、ある自治体の「手引き」を読まれた教員、弁護士、支援者の方から「不適切な記載内容」について指摘する声が寄せられた。そこで私たちは、いくつかの自治体の「手引き」について、比較検討する作業を開始した。その過程でたどり着いたのが1970〜80年代の「指針」である。

新しい「手引き」には、指針(「1980年代・90年代の『教育方針・指針』策定運動」(小綿剛))で記されていた韓国・朝鮮人に対する偏見を生みだした歴史的経緯や、日本風の名前を名のり、日本人のふりをしなければ生きていけない外国籍児童生徒の心情(「『本名・民族名を呼び名のる』運動の継承(山根俊彦)」)にふれる記述はあるだろうか。「教職員たちが、公的教育においてニューカマーの子どもたちが日本語という同化教育のみにさらされないよう張った最初のバリアー」(「反差別・人権を基盤とした多文化共生教育(榎井縁)」)として機能するだろうか。就職差別の現状(「就職差別を許さない運動の継承(笹尾裕一)」)を踏まえた適切な進路指導の指針となり得るだろうか。

この作業が、本特集を企画するきっかけとなった。

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