みなさま、はじめまして。
片山 咲(かたやま さき)と申します。
多くの記事の中から目を止めていただき、ありがとうございます!
ちょっぴりオタク気質なのでアニメやら映画やらのディープな話題もあるかもしれませんが、そこも楽しんでもらえるような発信をしていきます。
◆自営業の両親と過ごした幼少期
1993年12月16日に福岡県大牟田市に生まれ、料理人の父と美容師の母、6歳年下の弟との4人ですくすくと育ちました。
父方の親戚は教員ばかり、母方の親戚は建築関係の職人ばかりという職人気質な家庭環境だったので、小さい頃はスーツを着ている一般的なサラリーマン家庭が別の国の話のように感じていました。
自分の誕生日プレゼントに様々なジャンルの本を所望するくらいの本の虫だったのは自覚しており、色々な事に興味関心を持ちがちで夢見がち、小学校の昼休みには友達と校庭には行かず、マイペースに図書室に籠もっていたので担当の先生から心配される位でした。
それだけ好奇心旺盛、なのにやや飽き性だった幼少期の悩みは、「やりたいことが一つに絞れない」!
職人気質=好きなことや得意なことを仕事にしてきた両親、親戚に囲まれていたので「何故、人生で仕事って1つしか出来ないんだろう」という疑問と「情熱持ってやりたい!と思えることがない」という葛藤に部活など長続きせず、唯一の趣味はやはり読書でした。
本を開けば未開の地に冒険できたり、知らない概念や思想に出会える感覚はさながら海外旅行のようで、飲食店を経営していた関係もあり遠出を出来なかった幼少期の私自身にとっては直ぐにできる仮想旅行そのものでした。
◆日本を飛び出しロンドンへ渡った中学2年生冬
両親の応援もあり、地元の中学校が荒れに荒れていたのもあって、中学受験にトライ。当時は6歳年下の弟も生まれていたのもあり、奨学金枠での合格だったので無事に中高一貫の女子校に入学しました。
母校はカトリック校でロンドンやシンガポールなど世界各所に姉妹校制定をしており。中学校2年生の冬、受験が始まる今しかない!というタイミングでロンドン短期留学のチャンスが舞い込んできました。
当時は本当に本当に本当に英語が大の苦手だったのですが、「ハリー・ポッター」原作を販売日当日に徹夜して読み終えるくらいの大ファンだったので「ハリー・ポッターの聖地だ!」という完全にオタ活目当てで両親に土下座、留学資金を出していただき1ヶ月の短期留学を経験させてもらいました。
このロンドン留学をきっかけに私の人生の選択肢に【海外】が増えました。
何かと母校は英語教育に力を入れていたので修学旅行で行ったシンガポールではアジアの魅力に目覚め、大学では絶対に「留学」するんだと当時は胸のうちに想いを秘めていました。
◆浪人を経て、大学へ入学。ついに交換留学へ!
中高一貫校だったので、という言い訳を当時はしていましたが、現役時代は勉強をサボりにサボりまくってアニメ漫画の生活だったので、また両親に応援されて浪人を1年間だけさせてもらいました。
この時もですが、中学受験から継続して学習塾には通わせてもらっていたのでここでやっと初めて「両親に投資してもらっているのだ。まだお金のかかる弟もいるのに」と大いに反省、両親の偉大さを自覚でき、大学は学費の安い国公立のみを狙い、無事に佐賀大学経済学部経済学科に入学。
授業料免除制度を使って、浪人時代にかけてもらった分くらいは大学4年間で浮かせられたと思います。
いざ大学生だ!とわくわくするのもつかの間、サークル活動やバイトを経験しながらもずっと頭の隅っこには『いつどこにどうやって留学しよう?』それしか考えていませんでした。
そして当時の私は日本のような先進国ではなく、発展途上国の経済にとても興味があり、ノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行の創設者ユヌス氏の講演会に行くほど、発展途上国論に夢中でした。
大学2年生夏頃に交換留学生の枠がまだ空いているというニュースと文部科学省が設立した「トビタテ!留学JAPAN」という制度で留学費用は賄える=コストを最小限に抑えられる、という2つの朗報を聞きつけ、TOEIC600点ギリギリあるか?レベルでも行ける留学先を探していただきました。
数カ月後には大学3年生の丸々1年間を台湾の国立政治大学で過ごす事、トビタテキャンペーンで留学中の費用はほぼ賄える事、諸々がほぼ決定した状態で両親に「私は来年から台湾に行くから」と宣言し、家族会議が開かれました。
◆何事も事後報告過ぎる!心配をかけまくった留学、就活、そして上京
交換留学の件もそうですが、その後の就活、そして上京することも基本的に事後報告して、断行してきました。もうバチバチに両親と喧嘩してきました。
何故相談しなかったのか?と言われると『絶対に反対されると思ったから』の一言です。
両親は飲食店経営をしている関係もあり、長期休暇で東京や海外に行く時間よりも私達子どものためにとほぼ毎日働いてくれていたので、正直留学や上京のイメージがついていない状態、且つ家ではだらしない娘が急に「独り立ちしたい!」と言いだしたので親からしたら一大事でした。
英語も得意じゃない娘が急にアジアの発展途上国に留学したい!と言い出しているので、当たり前に心配し、反対してくれました。
当時はその心配が愛情であることを受け止めきれずにバチバチ喧嘩し、パワーポイントを使って毎月の資金計画や留学目的などをプレゼンして納得してもらおうとしましたが、最終的には「自分に甘いあなたが海外で生きていける訳ない」と一喝。
この出来事もあって自分自身の未熟さを受け入れながらも、「何故分かってくれないんだ!」と家族関係をモヤモヤさせながら【私の人生は私が決めるんだ!他人にとやかく言われたくない!】と自己決断の経験の中で様々な想いを抱えながら上京することになりました。
◆憧れのTOKYO!そしてメンターや格好いい大人達との再会
上京当時の次のゴール設定は「MBAを取ること」でした。
大学4年間のほとんどを留学という2文字だけで脳内を埋めていたので、上京当時はとにかく自分に実力があると証明できる何かが欲しかったのだと思います。
また経済学部だったこともあり、海外への扉がまた開きそうな「MBA取得」を目指そうとしていました。
ただ調べれば調べるほど、そもそも資格取得のためのコストや時間、経験値が圧倒的に足りない!少なくとも入社した会社にずっと居ても、達成できるのか確証がないなと思い、入社1ヶ月目で転職サイトに登録しまくり、社会人生活どうしていこうか?と悩みに悩んでいました。
そんな中で「転職先はどうしたらいいかな?」「MBA取得した先輩はいないかな?」と色々な事を考え始めてからは、誘われたら行くぞ!という取り柄のフットワークの軽さで様々な飲み会や場に顔を出して、色んな人と出会ってきました。
そんな中、友人に連れられた飲み会で出会った先輩経由で人生のメンターに出会い、その考え方のギャップや面白さに交換留学した時以上のアドレナリンが出る感覚を味わいました。
直感でしたが「この人との縁は切っちゃ駄目だ!」と思った自分自身を褒めてあげたいです。
その方とのほんの20分程度の会話で脳みそのリミッターをいい意味でぶち壊していただき、おかげ様で今の自分があります。
メンターとの出会いで好転した事は書き切れないほどあります。
・自分の人生の指針を創れました。
・「情熱持ってやりたい!と思えることがない」という悩みがなくなりました。
・職業観や人生観を学び、収入の桁が変わりました。
・深い人付き合いが苦手で自己開示も下手でしたが、周りにいる友人や仲間が増えました。
・あれだけギクシャクさせていた家族関係も良好になりました、etc…
◆30代を迎え、これからのビジョン
20代は入社した会社が倒産するなどの珍エピソードもあり中々に波乱万丈でしたが、人生の越えるべきキーポイントは通過したな!という達成感もあります。
私のビジョンは、
『学歴や生まれた環境など過去関係なく、努力で人はどこまでもいけるを結果成果で証明し、社会に貢献し続けます』
NoteをはじめとしたSNSはもちろん、読書や実際の人にお会いする事、全てを通じて目標達成の為に日々修行しています。
人としてまだまだ未熟ですが、「継続は力なり」を信じながらNoteでの発信も継続していきます。
(2024年10月31日更新)