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紀元節 - 日本のはじまり

はじめに

あなたもご存じだろう。

日本には「建国記念の日」として祝われる日がある。
それが2月11日である。

しかし、 この日を単なる「建国を記念する日」と理解するだけでは、 日本が長きにわたり受け継いできた本来の意義を見失ってしまうかもしれない。


この日はもともと「紀元節」と呼ばれており、 日本が国家として誕生したことを祝う重要な祭日であった。

古くから伝わる歴史書『日本書紀』によれば、 初代天皇である神武天皇が即位した日が日本の起源とされ、 これを祝う日が紀元節として制定されたのだ。

しかし戦後の日本では、 GHQ(連合国軍総司令部)による占領政策の影響を受け、 この紀元節は一時的に廃止されることとなる。

その後、 国民の紀元節復活を願う運動が起きたことを踏まえ、1966年に「建国記念の日」として復活はしたのだが、 名称の変更により「紀元節」が持っていた本来の意義が失われ、 日本の建国を祝う気運も戦前とは大きく異なるものとなってしまった。

この note では、 紀元節の意味、 由来、 伝説や歴史、 戦前と戦後の変遷、 そして現在について、 史実等に基づいた内容をお伝えしたいと思う。



第一章 紀元節の意味と由来

紀元節。
あなたも一度は聞いたことがあるだろう。

この日は日本の「建国」を祝う日だ。

その歴史的意義は単なる祝日にとどまらず、 日本という国の成り立ちを確認し、 国家及び日本国民としての一体感を育む重要な日とされていた。

その起源は 『日本書紀』や『古事記』 にまでさかのぼる。

この章では、 紀元節の背景にある考え方や制定の経緯について詳しく見ていこう。

一、皇紀とは何か ー 日本独自の紀年法

■ 皇紀の定義
日本には西暦や和暦(元号)とは異なる独自の紀年法として、「皇紀」 というものが存在している。

これは、 神武天皇(初代天皇)が即位したとされる紀元前660年を元年として計算される年号のことだ。

皇紀は、「日本という国がいつ誕生したのか」という問いに対する一つの答えを示しており、明治時代に正式に採用された。

たとえば、

・西暦2025年は皇紀2685年
・西暦1940年は皇紀2600年
 (日本では「紀元2600年」として盛大に祝われた)

というように計算される。

■ 皇紀の起源
皇紀の考え方は日本の歴史において長い間受け継がれてきたが、 実際、 公的に使用されるようになったのは明治時代からである。

日本の歴史はとてつもなく長く 古く、 連綿と続いてきたものであることと、 近代国家としての一体感を高めるために明治政府は皇紀を採用したとされている。

この流れの中で、 紀元節の制定が進められた。

二、紀元節の制定とその目的

■ 紀元節の制定
紀元節が正式に制定されたのは、 明治5年11月15日(1872年12月15日)。

日本はそれまで太陰暦(旧暦)を用いてきたが、 この年から太陽暦(グレゴリオ暦)へと変更している。

その流れの中で新暦をもとに、 翌 明治6年(1873年)2月11日を紀元節と定めたのだ。

この日が選ばれた理由は、 『日本書紀』の中で神武天皇が即位したのは辛酉(かのととり)の年、 正月1日と書かれており、 明治政府がこれを新暦に換算し、 2月11日を「日本の建国の日」として祝うこととしたためである。


三、紀元節制定の背景

■ 国家意識の統一
日本は明治維新を経て、 西洋列強と肩を並べる近代国家を目指そうとしていた。

その中で国民のアイデンティティを統一し、 国家としての一体感を高める必要があったといえる。

そこで 「紀元節」 を制定することで、 日本人が共通の歴史認識を持ち、 「日本」という国に誇りが持てるように促そうとした。

■ 西洋の国民祝日に倣う
当時の欧米諸国には独立記念日や建国記念日が存在していた。

それらが国民意識のさらなる向上にして関係していることがわかり、 日本もこれに倣って建国を祝う日を設け、 国家や国民の一体感をたかめようとしたのである。

しかし、 西洋列強のまねごとで終わらせないのが日本という国だ。

明治政府は欧米化を進める一方で、 日本独自の伝統を保つことも忘れてはいなかった。

長い時の中で受け継がれてきた歴史的な話や伝説、神話などが日本国民の精神的支柱となってきた背景を大切にし、それらを踏まえた祝日を設定したのである。

このようにして、 明治以降、 紀元節が 「 国民が日本の成り立ちを確認し、 自国への誇りを持つための日」 として定着していったのである。


四、紀元節の意義 ー 建国を祝う日としての役割

単なる祝日以上のもの。
それが 「紀元節」 である。

日本という国の始まりを日本国民全員で記憶し、 未来へつなげていく日であり、 さらには 次のような重要な役割も担ってきた。

■ 日本の「誕生日」としての役割
紀元節は、 日本の「建国記念日」としての役割を持っている。

これは、 西洋の独立記念日とは異なるものであり、 日本が独立を勝ち取った日でもない。

 「国家としての成り立ちを祝う日」である点が特徴的だ。

■ 天皇と国家の関係を確認する日
日本は古代から天皇を中心とする国家であり、 天皇は「万世一系」の存在として国の象徴とされてきた。

そのため、 紀元節を通して天皇家の歴史と存在を再確認し、 日本が連綿と続く国家であることを意識する機会でもあったのだ。

■ 国民の結束を強める日
さらに紀元節は、 単に 「日本の建国」 を祝うだけでなく、 国民全体がひとつになることを目的としていた。

神武天皇の御詔勅に明瞭であるように、 八紘一宇の理想を有する日本…
 高須芳次郎 著 『海の二千六百年史』

「六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、 八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為んこと、 亦よからさらんや」
『日本書紀』 巻第三 神武天皇の 「橿原(かしはら)遷都の令」中の一節

■ 歴史を継承する日
日本の歴史を次世代に伝え、 受け継いでいくという重要な役割も、 この紀元節は含んでいる。

戦前の学校教育では、 日本の歴史を学ぶ機会として紀元節が重視され、 建国神話や天皇の歴史が深く語られてきた。

これは余談であるが、 私の祖母が昔、 紀元節の日の話をよく聞かせてくれた。 紀元節の日は今と同じで休みではあるが、 皆 学校へ行き、 先生の話を聞いて、 みかんを二個もらって帰ったのだそうだ。

歴代の天皇の名前もすべて暗記していたという。


五、紀元節に対する考え方の変化

第二次世界大戦の後、 占領軍によるさまざまな政策で日本の歴史が塗り替えられてしまったことは、 なんとなくでも知っている方は多いだろう。

紀元節もその中の一つである。

■ 戦前
紀元節は国家的な祝日として重んじられ、 全国的に盛大に祝われた。
・学校では式典が行われ、 天皇への忠誠を誓う場面もあった。
・軍隊や官庁でも、 紀元節に関連する行事が行われた。

■ 戦後
GHQの占領政策により、 紀元節は「戦前の軍国主義を象徴するもの」とされ、1948年に廃止を余儀なくされた。
・しかしその後、 国民の 紀元節の復活を願う声によって「建国記念の日」として1966年に復活した。

戦前と戦後の紀元節の位置づけなどについては、 第三章及び第四章で詳しくお伝えしたいと思う。

第二章 神武天皇と建国神話

日本建国の歴史を語る上で、 神武天皇の存在は欠かせない。

『日本書紀』や『古事記』によると、 神武天皇は天照大神の血統を受け継ぎ、 日本列島を統治するために東征を行なって(御発展ともいう)、 最終的に大和(現在の奈良県)に都を定めたとされる。

紀元節は、 この神武天皇の即位の日に由来している。

しかし、 神武天皇の実在性については考古学的な証拠が乏しく、 歴史学者の間では議論が続いているのも事実だ。

一方、 日本の成り立ちを語る上で 神武天皇の東征と即位に至った話は重要なものであり、 日本人が自信を持ち、 国に誇りを持って生きていくうえで大きな意味をもたらしてきた。

この章では、 神武天皇に関する記述を詳しく掘り下げ、 即位に至るまでの背景と歴史的な意義について考える。

一、『日本書紀』と『古事記』における神武天皇

■ 『日本書紀』の記述
『日本書紀』は、 720年(養老4年)に完成した日本最古の正史であり、 八世紀の時点で日本人がどのように自らの歴史を理解し、 語り伝えていたのかを知るための重要な史料である。

この『日本書紀』によれば、 神武天皇は天照大御神の五世孫であり、 日向(現在の宮崎県)で生まれた。

そして、 彼は国を治めるために東方への旅を決意し、 いわゆる「東征」を行なう。

東征の過程では多くの戦いを経験し、 困難を乗り越えながら最終的に大和の橿原(かしはら)に到達。

即位したのが紀元前660年1月1日(旧暦)であると記されている。

これが、日本の「建国」の起点とされ、 後に紀元節が制定される根拠となった。

■ 『古事記』の記述
『古事記』は、 『日本書紀』よりも早い712年(和銅5年)に編纂された日本最古の歴史書である。

ただし、 記述のスタイルは『日本書紀』と異なり、 より神話的・伝承的な要素が強く、 日本の神々の系譜を中心に展開されているのが特徴的だ。

『古事記』においても、 神武天皇は天照大神の血筋を引く存在として描かれているが、 『日本書紀』ほど詳細な戦いや政治的な動きについては記述されていない

そのため、 神武天皇に関する歴史的記述を検証する場合、 『日本書紀』の方がより具体的な情報を提供しているといえる。

二、神武東征 ー 日本統一へ

神武天皇が即位するまでの道のりは「神武東征」として語り継がれている。

ここでは、 日本の統治を確立するために日向(宮崎県)を出発し、 大和(奈良県)に至るまでの一連の旅と戦いを簡単にではあるが見ていこう。

➤ 日向から豊後へ(現在の大分県)
神武天皇は、 兄たちとともに日向を出発し、 海を渡って豊後(現在の大分県)へと向かう。 これは、 彼らが南九州に根付いていた一族であったことを示唆している。

➤ 瀬戸内海を進み吉備へ(現在の岡山県)
神武天皇の軍勢は瀬戸内海を東へ進み、 吉備(現在の岡山県)に至る。吉備の地は、 当時の日本列島における重要な交通の要衝であり、ここで軍を整えたのではないかとされている。

➤ 大和への進軍と敗北
吉備からさらに東へと進んだ神武天皇は、 大和の地に入ろうとするが、 すでにこの地域を治めていた長髄彦(ながすねひこ)という勢力と戦い、 一度敗れてしまう。

この戦いは、 神武天皇の軍が西から進軍したため太陽が昇る方角へ向かって賊を討とうとしたため、 不利な状況となったと伝えられている。

「 われは太陽の神、 天照大神(アマテラスオオミカミ)の血を受けたものである。 いま太陽に向かって賊を討つのは、 天の道に背くものである。 帰り、 退こう。 天神地祇(てんじんちぎ)を祀ろう。 太陽を背とし、 日の光が射すとおりに襲い 討つのがよいであろう。 かくて刃を血ぬらすことなく、 賊は破れるであろう 」

田中英道 『日本国史』上 第三章より


➤ 熊野を経由し、大和への再進軍
敗北した神武天皇は、 軍を整えて戦術を変え、 南から迂回して熊野(現在の和歌山県)へと向かう。 そして再び大和へ進軍し、 最終的に長髄彦を倒して大和の統治を実現した。

➤ 橿原宮での即位
大和を平定した神武天皇は、 橿原宮を築き、 紀元前660年1月1日(旧暦)に即位。 これが「日本の建国の日」とされている。

三、実際の歴史との関係

■ 神武天皇の実在性
神武天皇に関する記述は 『日本書紀』 や 『古事記』 のなかで語られている神話が主であるため、 考古学的な証拠はほとんど存在していない。 そのため、 実在した人物であるかどうかは今も議論の対象だ。

歴史学者の中には、 「神武天皇は実在したが、 後の時代に神話化された可能性がある」 とする説や、 「複数の統治者の記録が合成されて作られた架空の存在である」 とする説などさまざまある。

現在までに分かっているのは、 考古学的な研究や発見などをもとに、 弥生時代後期から古墳時代初期にかけて大和を中心とした政治勢力が確立されつつあったことだ。

これは、 神武天皇の東征と重なる部分であることがわかる。

■ 神話としての意義
確実な物的証拠が存在しないために事実と異なる可能性があることは、 どうしても拭いきれないだろう。

しかし、 たとえ神話であろうとも、 日本人の精神や文化に与えた影響は計り知れない。

天皇の統治が神々の意志に基づいているという考え方こそが、 後の日本の国体論にも影響を与え、 日本の独自性を形成する要素の一つとなったのである。

四、 神武天皇と紀元節の関係

紀元節が制定された背景に、 神武天皇の即位を日本の起点とする考え方があったことは、 ここまでの話でお分かりいただけたのではと思う。

これはもはや 単なる神話としてではなく、 日本という国家の成り立ちと統一性、 歴史の連続性を示す重要な手がかりだ。

■ 占領政策の影響
戦前の日本でも現代と同じように、 紀元節は祝日だった。

日本全体で 「建国を祝う日」 として式典や祝賀行事が全国的に行われていた。

しかし戦後、 GHQ の占領政策の影響で紀元節は廃止されてしまう。

その後 「建国記念の日」として復活するものの、 かつてのような盛り上がりは見られなくなってしまった。

第三章 戦前における紀元節の位置付け

すでにお伝えした内容と重なる部分も多々あるが、 われわれ日本人にとって紀元節とはそれほどに大切なものであることを、 私はこの note をもってお伝えしたいと思っている。

どうかこののまま最後までお読みいただけるとありがたい。

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