ライヘンバッハの滝の上
疲労検知能力が低い話。
まずはそこに至るまでの背景から。私には人生の問題が大きく分けて3つあった。人の内面などどうでもいいかもしれないけどちょっと付き合ってほしい。
・寂しい
・死にたい
・親がしんどい
はい普通。人々の苦悩でトレーディングカードゲームを作るなら、これはさながら構築済みデッキのセット売りかというくらいありふれた組み合わせだ。「寂しい」というのは、人と繋がりたいくせにうまく繋がれず、クソデカ感情を持て余し、しばしば文字通り身動きの取れない状態に陥るというやつだ。「死にたい」は南国のスコールのように叩きつける希死念慮。「親がしんどい」のはいわゆる毒親・虐待とまではいかないが、何かどこかの僅かなズレ。奇妙さ。
生きづら界の中では全然大したことない部類だろうとは思う。ヒエラルキーの中の尖った三角形というよりは平べったい台形に位置するはずだ。でも生きづらさを他人と比べて測るのはちょっとナンセンスだとも思う。一見自分よりぬるそうに見える環境にいる人にも陰で何があるかわからないし、結局は生まれつきの脳神経の加減に左右されるような部分だってあるのだし。足が痛むのは、いかにもな茨の道を歩いたときだけとは限らない。清潔な温泉旅館に設えられた足つぼマッサージマットだって、脚を骨折した人や足裏をズタボロに怪我した人には激痛の元だ。
開幕早々話が逸れた。そんなありがちながら自分にとっては明らかにQOLをゴリゴリ削ってくるこの諸問題と、一生を共にしなければならないことを薄々悟り始めていたこの折、突然8割方が解決してしまった。雲散霧消だ。もうちょっと正確に言うと、「死にたい」のは100%消えた。「寂しい」のは70%くらいか。「親がしんどい」のはまだ50%ぐらいかな。足しても8割にならないがまあそこは感覚だ。3つのウェイトが均一でないのもあるか。「死にたい」のが一番きつかった。この3つは絡み合ってはいたけれども。
しかし、「死にたい」問題はある瞬間を境に完全に消えてしまった。「寂しさ」に関しては職場で人に恵まれるなどして徐々に解決していった感があるが、「死にたい」のはあることに気づいてその知識を得た瞬間にどこかへ行ってしまった。「親がしんどい」問題のある程度の部分も同時にさらさらと崩れていった。こんなにデジタルな解決になるとは私も予想していなかった。これは万人に適用できる解決フローではないと思う。かなり稀かつ変なケースだと思う(転職するにあたり、ハローワーク系の施設でキャリアカウンセラーの人に発達障害傾向をオープンにしたうえでこの話をしたら、「一般的にはカウンセラーの導きがないと達成しえないことをあなたは達成している」と驚かれてしまった)。たぶん大抵は、合う薬を飲むことや認知行動療法、カウンセリングといったものを通して徐々に解決していくもの、のはず。でもやっぱりどこかに同じような人がいないとも限らないから、書く。
ここでようやく今回のテーマと話が繋がるわけだけれど、気づいた瞬間「死にたい」のが消滅したあることというのは、「私は発達特性のせいで疲労を感覚的に検知することがほぼできないのだ」そして「私は今まで(特にここ1年)とてつもなく疲れていたのだ」ということだった。
……繋がってねえよという声が聞こえてきそうだ。もう少し説明が必要かもしれない。
疲れている感じがしないから、意識の上では自分はまだまだやれると感じる。そうすると、生来の真面目さが祟って、やれるのならやらなきゃいけないという気になってくる。もっと言うと、努力量も成果も足りていないのにどうして怠けてしまうのか、なぜ頑張れないのか、という方向にまで考えが伸びてくる。しかし実際のところ既に頭も心も体もはちゃめちゃに疲れている。動かないし動けない。でもそれを意識が正しく検出しない。万全のコンディションだと信じ込んでいるからひたすら自分を鞭打つ。その繰り返し。
だから、「自分には知覚出来ないだけで、実際は疲れているから、今これ以上頑張れないのは仕方のないことなんだ」と気づいた瞬間、完全に救済された。休むことの必要性をようやく心の底から受け入れられた。それまでどこか、ダラダラしがちで何かと人よりとろい自分に引け目を感じ、休むことに罪悪感があった。休む必要なしと意識のモニターが常時返してくるのだからまあそりゃそうだ。サボっているような気になってしまう。だけれどきちんと働いていないのはモニターのほうだったのだ。
もしもうちょっと疲労のモニタリングがきちんとできる人間だったなら、いくら人が減って前職の仕事がきつくなったからといって、休職するまで仕事にのめり込んだりはせずに済んだかもしれない。ちなみに、休職直前~休んで最初の2週間ほどは、実はごくうっすら疲労を感じていた。ん?ちょっと疲れてるかな?くらい。しかし疲労の感覚に極端に鈍いことに気づいてからこの事実を振り返ると結構恐ろしくなる。極端に鈍い人が検知できるような疲労ってそれ何よ、と。
というわけで、私はなるべく自分の疲労感に頼らずに生きていこうと決意した。まず、累計作業時間をもうちょっと気にすること。そして、疲労感ではない感覚だとかはそれなりに知覚できる(このことが事態を一層ややこしくしていた面もある。筋肉痛やコリみたいなものは感じるため、自分が疲労をほとんど知らないことになかなか気づけなかった)ので、それを手掛かりに疲労を推定すること。それまで違和感があるといえばあったが治し方も原因もよくわからないので放置していた謎の症状をリストアップしてみた。上にあるものほど昔から存在する。
・希死念慮の発作
・過眠
・お腹の壊れ
・痒い湿疹
・生理不順
・エミュレータの機能停止
・攻撃性の発作
・虫や人がいるような気がする
・やらかし感の発作
・ほんのり疲れたような感じ
「希死念慮の発作」は上に書いた3つの問題のうちの1つで、かなり小さい頃からあったように思う。ただ頻度は多くなかった。増えだしたのは高校受験あたりからか。そのぐらいから双極性障害Ⅱ型の鬱にも結構浸かっていて、鬱由来の希死念慮も結構大きくなったけど、大学のときに服薬治療を始めたらそっちのほうはみるみるうちになくなっていったのだった。10代後半ぐらいの期間はずっと疲労由来の希死念慮と鬱由来の希死念慮が混然一体となって頭に居座っていたことになる。しかし服薬治療では消えない謎の希死念慮がずっと残っていて、それがようやくこの度疲労のせいだったとわかって消滅したのでした。めでたしめでたし。
それにしても、なぜ疲れが希死念慮の形で現れるのかはよくわからない。この場を離れてさっさと休めという逃避の欲求に近いのかもしれない。それか、体が「死ー!」とだけ言っているのに意識の思い込みが激しすぎるだけかもしれない。
「過眠」は高校生の頃に急に始まった。帰宅後即制服のまま玄関で寝るような日もあった。それまではむしろ不眠気味だったのに。そして休職してみるとたちどころに不眠に戻っていった(こういう風に休職すると消えたため存在に気づいた体調不良は数多い)。転職活動を始めて軽い負荷がかかるとちょっと眠めだがやっぱり入眠困難気味な日があったり中途覚醒が多かったりする。この事実から、私は元来過眠の民ではなく不眠の民であると推測される。不眠人間が20h/dayとか寝るようになる疲労って何よ。
「お腹の壊れ」は腹痛とかトイレに駆け込むようなことはないけど恒常的にお腹が壊れているというやつ。「痒い湿疹」は移動する湿疹が全身を行脚する。「生理不順」いつあいつが来るのか予測アプリにもわからない。驚くべきことに、私はこの3つの体調不良を体調不良として意識していなかった。休職して格段によくなったことで初めて気づいたのだ。時々気になって原因をググったりしていたのだけど、スマホの画面を埋め尽くす「慢性疲労」の文字はまったく意識に届いていなかった。だってまさか自分が疲れているなんて思いもしないもの……。
「エミュレータ(苦手なコミュニケーションを意識的に調整する癖)の機能停止」はあまり実感はないが、職場の状況がヤバくなりだしてからコミュニケーション事故が発生したり、上司に態度の悪さを指摘されたりすることが増えたことから推測。休職直後は外に出ようが人前に出ようがエミュレータが全然起動せず(というくらい私にとっては自動的なものだ)、もう二度とエミュレートできない体になってしまったかもしれない……と思ったが2週間休んだら治った。
「攻撃性の発作」というのは何か原因のあまりない怒りが突然湧いてくるというような現象がまず起こるようになり、そのうち架空の犯罪者などに怒る(例:痴漢は許せない!誰かが被害に遭っているのを見たら加害者を痛い目に遭わせてやる!)ようになり、最終的には実在の人物に怒りの矛先が向きがちになった。これを経験して思うに、SNSなどには、よくわからない敵に対して怒っている人や、著名人などを批判するというよりただ叩いているだけの人などが沢山いるが、あの人たちは実はものすごく疲労が溜まっているのではないだろうか。ちょっと心配になってしまう。
「虫や人がいるような気がする」は幻覚に近い。何かぽつんとゴミが落ちているのが一瞬虫に見えてギョッとしたり、人がいるのかなと思って近づいてみたら単に物体が影を作っていただけ、みたいな経験が休職半年前くらいから増えたような気がする。少なくとも最近は全然ない。
「やらかし感の発作」はあまりうまく説明できないが、やらかした事実が何もないのにたいへんいまおきました的な焦燥感だけが感じられる不思議な現象だ。これも昔からあるにはあったが、休職半年前?3か月前?ぐらいからガッと増えた気がする。
そしてここまで来てから「ほんのり疲れたような感じ」が来る。そのぐらい私の疲労検知システムはアホだ。なんというか冗談抜きで死ぬ手前だったんじゃないかと思っている。
他にもまだあるかもしれないが大体こんなところだ。軽くさーっと解説するだけのつもりだったのにな。そして書いているうちにまた色んなことが頭の中でつながってきた。疲労に限らず感覚による非言語的な自己モニタリング実はよわよわなのでは?具体例行ってみよう。飽きてきたので雑だ。
・おやつが食べたいような気がして一通り貪ってから最後にお茶を飲んで気づく喉の渇き(無駄なカロリー摂取)
・なんだかやる気が出なくて動けず2時間ぐらい溶かしてからふと暖房のスイッチを入れたり靴下を履いたりするとさくさく動ける寒がりの自分
・うっすら切った程度のケガには気づかないことあり
・強迫観念もあり限界を超えて食べがちだった幼少期
・運動神経のなさ
今のところそんな山ほどは出てこないけれども、今後注視していたら似たような例はざくざく出てくるような気がする。自分の意識に上る言葉や感情にはわりと敏感なほうだし、身体に出るみたいなこともそれなりにはある、しかし自分の身体が今どんな状態なのか感覚を通して知るということについてはポンコツなのだ。聞いたことあるなあこの話。結局よく言われる発達障害者あるあるはやっぱり真理を突いている。腑に落ちるまで時間がかかってしまったが。
ところで、一つだけ触れていなかった「親がしんどい」という問題までもがなぜ今回救済対象にある程度入ったのかというと、親も発達特性がかなり一緒だなと納得がいったからだ。遺伝子はほとんど共有なのでベースはあまり変わらない。変わらないがゆえに、親には私の抱える問題が問題として認識できない。自分もああだったなあとしか見えないのだろう。お互いに違っているなあと思う部分は、たぶんお互いが生きてきた異なる時代の価値観によるものが大きいんだろう。そう思うことである程度の諦めはついた。ある程度。
この辺で今日はもうまとめてしまおうと思うのだけど、かつての私は、自分ができないことを改めて認識して何になるんだと思っていた。知っ(て)た、終わり、となるような気がしていた。けれども、自分の感覚はずっと煙に巻かれていて、到底信用ならないものであると認識することは、予想外の救済を私にもたらした。これでようやく、なんとか生きていけるような気がした。