子どもの〈ヒマ〉を大人が埋めてしまわない方がいい
ちょっとの時間でも、時間の空白をゆるさない大人が増えている。
電車に乗って数駅。ご飯を食べに行って注文したものが出てくるまで。人との待ち合わせの数分。わずかな時間に、スマホを取り出し、何かを見ている。
大事な連絡かもしれないけれど、単に、すきまの時間を持て余しているのかもしれない。
子どもに対しても同じことをしていないか。子どもが「ヒマー」って言ったり、楽しいことが見つからずにイライラしていたり、大人に構って欲しくて気を引こうとしている時。
「手っ取り早く楽しめるもの」を提供してはいないか。たとえば、スマホとか。
子どもたちは・・・、いや違う、大人も子どもも、何もなければ、自分たちで楽しみを見つけたり作ったりすることができる。
ごくごく小さい赤ちゃんの頃は、「あたま~あたま!」とか「くちくちくちくち!」とか言いながら、子どもの身体のあちこちを触るだけで、子どもは喜ぶ。少し大きくなれば、こそばしあいっこをしてもいい。目に見える景色を「●●が見えるねぇ」って伝え合うだけでもいい。年齢が高くなれば、「赤いものを探そう」って言えば、同じ景色が、探しっこゲームの舞台になる。動物とか、果物とか、お題に沿った言葉をお互いに言い合うゲームもいい。その先には、しりとりもできる。
少しばかりの道具があれば、絵とか、折り紙とか、何か好きなものを描いたり作ったりしてもいい。絵でしりとりもできるし、紙を適当にちぎって、何の形に見えるか言いあいっこしてもいい。
「ヒマ」に、どう向き合うのかは、子どもが、ごくごく小さいうちに、大人がすこーしだけ覚悟を決めた方がいいんじゃないかと、私は考えている。「ヒマ」を外からの楽しみで埋めるのではなく、自分で工夫すれば何とかなる、という実感を持っておく。自分の時間を自分で何とかする。自分のことは、自分で楽しませる。
それって、子どもたちにとっては、「ヒマ」な時間だけではなくて、日々の過ごし方について、彼ら自身が何とかしよう、という姿勢を持つことにつながると思うのだ。
子どもの時間を大人が埋めていく作業は、ごく小さなうちに留まらない。少し大きくなれば、幼稚園が終わった後とか、週末とか、子どものスケジュールの空白の時間を「習いごと」で埋めていく。それは、〈週末にすることがなくてヒマを持て余す〉という思いをさせず、時間を効率的に使っているのかもしれない。でも、そういう子どもは、自分のスケジュールを、常に誰かに「埋めてもらっている」。
そういう過ごし方が当たり前になれば、ふと、自分で何をしてもいい時間ができたときに、きっと、何をしていいか分からないし、不安になるかもしれない。自分の時間なのに、「誰か」に決めてもらうことが当たり前になってしまうことは、ちょっと怖いことだと思う。
〈ヒマ〉をこわがる必要はない。
ごくごく小さい赤ちゃんが、大人を求めて呼ぶのは、〈ヒマ〉だからではない。大人との関わりを欲しているからで、それは、大人の手の加わらないオモチャや動画では埋められない。ここは、関わりを大切にした方がいい。
でも、もう少し年齢があがって、シンプルに退屈を持て余し、「ヒマヒマヒマー」と騒いでいるんだったら、そんなに親切にしなくていい。「昨日の折り紙、まだ残ってるよ」「最近、ブロックやっていないんじゃない?」とか、提案するのは良いし、最初のうちは一緒に遊ぶことで楽しみ方に気づく、という段階はあるかもしれない。でも、そこでYouTubeを観てしまえば、自分で何とかしないうちに、ヒマが解消されてしまう。
ヒマでヒマで仕方がないからこそ、子どもは、何とかして自分で自分を楽しませるしかない。その過程を経て、自分で何とかできるようになる。
だから、子どもの〈ヒマ〉を大人が埋めてしまわない方がいい。〈ヒマ〉という余白は、子ども自身が何を入れてもいい、大切な可能性なのだ。