ベタですが、卒業の思い出
これまでの人生で、何度か自分自身の卒業と、我が子の卒業を経験してきましたが、本日は娘の高校卒業式の日でした。
しかし!
例のアレのせいで、卒業生1人につき保護者は1人までしか参加できず、そうなると娘も、父親よりは母親に参加を求めますよね(´・ω・`)
せっかく有給取る気満々、泣く気満々だったのですが、娘の旅立ちの姿を見ることはできず、帰宅後に伝聞で想像するしかないという、寂しい娘の卒業式の日となってしまいました…( ノД`)
さて私の場合、学業における卒業は5回経験している訳ですが、一番思い出に残ってるものは、やはり中学校の卒業式になります。
詳細は後程(と言いつつ、何度か書いてますが)ということにしまして、年代順に覚えてることを思い出してみたいと思います。
【幼稚園卒園】昭和52年3月
卒園アルバムを見ても日付が分からないのですが、年と月は合ってるはずです(笑)
私の胸熱激熱な初恋は中1の時ですが、よくある初恋は、幼稚園の年長の時の先生です。
よく父親が私をからかうのに、
「今度○○先生と結婚しようかな」
等と言っては、幼い私を怒らせていた、そんな思い出がありますよ。
実は今でも先生と年賀状のやり取りをしていまして、私が賀詞を交換させていただいている中では、一番長い歴史があるのが、年長の時の先生になります。
私が6歳の時に先生は22歳だったので、16歳の差があるのですが、流石に私も50歳になりますと、そんなに先生と極端に年の差を感じることはなくなりました。
今でも地域ボランティアとして、放課後に小さな子を預かる施設で頑張っておられるそうで、頭が下がります。
卒園式では、先生と写真を撮ったことだけ覚えていますが(笑)、その写真は我が家の何処に消えたのか…。
ぜひ見付けて、当時の先生の可愛さを皆様にもご披露したいくらいです(*ノωノ)
【小学校卒業】昭和58年3月19日
何度か書いていますが、私は小学校では女子に嫌われていまして、クラスの卒業文集の企画、女子が嫌いな男子第2位の座を得ております。
特に女子に対してイタズラ(スカート捲りとか)したりした訳ではないんですが、恐らく見た目のブサイクさが原因でしょうね~。
小学校高学年から、私は父の命令により、頭髪をスポーツ刈りにさせられていたんですが、やや面長で色白な上、体育が嫌いな私に、スポーツ刈りは似合わないんです!(# ゚Д゚)
なので、女子は敵と思いながら横浜市の小学校を卒業したのですが、すぐに広島へ引っ越すことが決まっていたので、流石に別れは惜しくて、泣いて泣いて…
…と言うことはまったくありませんでした(笑)
むしろ早く引っ越したい、新しい土地、新しい社宅に住んでみたい、生まれ変わってやる!という気持ちのほうが大きかったです。
ただ何人かの親友との別れだけは悲しかったです。
そんな卒業式後に撮った唯一の一枚がこの写真です。
【中学校卒業】昭和61年3月10日
これまでも何度か書いているので食傷気味になってしまう恐れもありますが…💦
第一の前提が、この年の1月30日に初カノさんにフラれたこと。
第二の前提が、この年の2月13日に元カノさんが同じクラスの別の男子にチョコを上げる現場を見てしまったこと。
この2大前提が、私の中学卒業の際の悲哀さのバックボーンとなっております(´;ω;`)ウッ…
ただ、式典自体は感動的なものでした。校歌を絶叫するように歌ったり、生徒代表の答辞に号泣したり。
式典後、最後の学活を終えて本当に卒業となり外へ出ると、男子の学ランのボタンをもらおうとする女子や、記念撮影をする生徒や先生達で、大混雑!
私の元カノさんも、2月13日にチョコを挙げた同じクラスの男子と、私に見せつけるかのように腕を組んで写真撮ってたり…。
そんな入り乱れた光景を友人達と眺めつつ、いいなー、モテる男は羨ましいなー(学ランのボタンが全部無くなってる男子もいました( ̄O ̄;))、自分はなんだか居場所がないからもう帰ろうかなーと友達と話していた矢先、吹奏楽部の1年生の女子が、恥ずかしそうにトコトコと私のそばに来ました。そして・・・
「あ、あのミエハル先輩、ボタン下さい!」
マジで?うぉー、やったー ! ε=ε=(*≧∇)ノノノ
もちろんその申し出には嬉々として早々に応じまして、私は学ランの第二ボタンを引きちぎり、その女の子に渡しました。
その子がボタンを握り締め、顔を真っ赤にして走り去っていった光景は、今でも忘れられません(*^ー^*)
一緒にいた友人からは、当然(?)冷やかされましたよ(;´▽`lllA``
残念ながらその子は中2になる前に豊橋へ引っ越してしまったので、一度きりの接近に留まったんですが、心身が荒れていた当時の私に舞い降りてくれた天使でした。
その子がボタンをもらいに来てくれなかったら、私はその2日後にあった公立高校の受験に失敗していたかもしれません(苦笑)
そんな、無理やり第2ボタンを押し付けるように上げた後の写真がこちらです。
【高校卒業】平成元年3月8日
個人的には次々と受験した大学から、一校を除いて、来なくていいよという返事ばかりもらって落ち込んでいた頃で、最後に一縷の望みを託して受験したB日程(現在は後期日程と呼んでますね)の某国立大の結果に奇跡が起きないかと願っていた頃になります。
思い出としては、高校3年の時、私はクラスの学級委員長にならされていたのですが、そのお陰で(?)親孝行ができたことが思い出ですね。
高校の卒業式は、全8クラス、卒業生約370人という規模だったので、体育館での本式典では各クラス代表がクラス全員分の卒業証書を校長先生から受け取り、式典後にクラスに戻って、改めて担任の先生から一人一人に卒業証書をもらうシステムになっていました。
そのクラス代表に、私がなってしまったんです(@_@;)
要は各クラスの学級委員長が、そのクラス全員分の卒業証書を代表して受け取るだけなんですが、1人だけ前へ出て…っていうのはド緊張しました。
ですが帰宅してから母に、アンタも立派になったと言われ、ちょっと親孝行できたかな?と思ったものです(∀`*ゞ)エヘヘ
ちなみに恋愛面では、同期生女子、後輩女子を含めて、実は好きだったとか、制服のボタンを下さいとか、そういう告白は全く何にもありませんでした!
吹奏楽部と生徒会役員室に顔は出して、挨拶はしたのですが…。
モテなかった高校生時代を象徴するかのようですなぁ(苦笑)
そのため何の写真も残っていません(;´▽`A``
【大学卒業】平成5年3月24日
衝撃の事実!
なんと私は、大学の卒業式に参加出来なかったんですよ(゚∀゚;ノ)ノ
幼稚園から続く18年間の「学生」としての締め括りに参加出来なかった理由、それは激しい「渋滞」です
私の大学の卒業式は、平成5年3月24日(水)でした。
ですが私が富山で就職した所は、3月22日(月)、23日(火)の2日間に渡って、新人研修を行うことになっていたんです。
大学の卒業式等の理由で出席できない場合は、事前に人事課に連絡すること・・・と、研修案内には書いてあったんですが、正式就職の前から研修を欠席するのも、抵抗がありますよね(^_^;)
また卒業式の日程も、研修とピッタリ重なっているわけではなかったので、私は3月23日の研修を終えた後、特急列車に飛び乗って広島へと向かい、翌日の広島の大学の卒業式に参加しようというスケジュールを組み立てました。
3月23日は夕方5時に研修が終わった後、まず富山駅を17:50に出発する特急「スーパー雷鳥」に乗り、京都駅に20:40に着きます。そしてこの年に本格デビューしたばかりの「のぞみ」に乗り換え、21:12に京都を出発し、広島駅には22:50に到着、そしてホテルに泊まるというスケジュールです (私は広島のアパートを3月12日に引き払っていましたので、既にその時点では住民票上は富山県民でした)。
おぉ、芸能人みたいなスケジュールですね~(≧∀≦)
途中で悪天候による運休や、あるいは人身事故でもあろうものなら、とても翌日の卒業式には参加出来ない、タイトなスケジュールです。
結果的には研修も無事に定刻で受講でき、特急「雷鳥」も新幹線「のぞみ」も定刻の運行で、私は無事に3月23日の深夜22:50に、広島へと舞い戻りました。
不思議なもので、広島の住居を引き払った後の広島駅は、たった10日しか経過していないのに、何となく今までと違って、私の眼には他人行儀な感じに見えたのを覚えています。
さて翌朝、疲れた体に鞭打って、私は大学の卒業式へと向かいました。
私の大学はかなりの山奥にあり、交通が不便な場所なものですから、広島駅前から卒業式に合わせて臨時バスがたくさん運転されることになっていたんです。
卒業式は10時スタート、そして大学は、広島駅前からはバスで30分ぐらいだったので、私は9時ちょっと前の臨時バスに乗り込みました。
9時半位には到着するかな、と思っていたのですが・・・
バスが進むにつれて、車の流れが悪くなっていきます(-_-;)
スピードも、徐々にダウンしていきます。
卒業式に間に合わないんじゃないか?という嫌な予感がし始めましたが、こういう予感はよく当たるもので、遂にバスは途中でピクリとも動かなくなってしまいました(>.<)
無情にもバスの中で、卒業式スタートの時刻を過ぎてしまいましたが、それでもバスはまだ大学まで半分の距離しか進んでいません。
バスの運転手さんも、
「卒業生さんが乗っとるのに、バス優先にしてほしいのぉ 」
と、珍しく声を荒げてイライラしておられました(;^_^A
その後もバスは、ちょっと進んではしばらく停止という動きを繰り返し、時間は刻々と過ぎて行ってしまいました。
こんな酷すぎる渋滞は、それまでの人生では味わったことがありませんでした。
バスの中で私は、最後の最後でこんな目に合うなんて・・・と、己の運の無さを呪っておりました。
昨日の、富山から広島への芸能人のような長距離移動は見事に上手くいったのに、広島市内約15kmの移動に手間取るなんてil|li○| ̄|_
バスはノロノロと進み続けて、やっと大学構内に滑り込んだのですが、その時刻は既に11:45!
急いで卒業式会場の体育館へと向かってみましたが、既に卒業式は終わり、花束や卒業証書を手にした卒業生達、卒業生を見送ろうと言う下級生達によって、狂乱状態となっていました┏(x_x|||)┓
私はサークルに入っていなかったので、どの輪にも入れず、傍観するのみでした。
たまたま高校の吹奏楽部の後輩だった女の子が私を発見してくれ、ミエハル先輩おめでとうございまーす と言ってくれましたが、応える気力が失せてましたね(苦笑)
呆然というのはこういうことを言うのだなと、私はこの日、一つ国語を学習しました(^_^;)
…しかし卒業式に参加した人達は、一体何時にどうやってどこから大学へ辿り着いたのだ `s(・’・;)
かくして壮大なスケジュールは最後の最後で破綻し、私は18年間に渡る公教育の最後を、締め括ることが出来なかった・・・という思い出が、本日の締めとなりました~ (ちなみに卒業証書は、卒論のゼミの教授からもらいました )。