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20230827(朝起きることについて)

 朝は早く起きるほうがいいのか。短い人生の間にあらゆる時間の起床を経験したが、案外とそうでもない気がする。

 私は早起きがとても嫌いだ。苦手ではない。
 
 往々にして早起きは推奨される。過去の偉人や著名人(何が違うのか)、最近だとYouTubeやInstagramで情報発信をしているいわゆる自己啓発系の人々もまず口を揃えて「早起きをするべきだ」と主張する。
 特にそれは他人と差をつけるためという理由であることが多い。つまり、朝起きた瞬間から他者を意識し、常に競い合っている必要があると先述の人々は考えているということらしい。
 きっとそこに原因があるのだろう。私は昔から争いごと、競い合いが性に合わない。究極を言えばじゃんけんですら好まない。それは勝敗によらない。勝つにせよ、負けるにせよ、一度それらを行うことで目の前(とも限らないが)の相手との私の間に明確な差が生まれる。それはその後一切関わらずともどんなに親しくしようとも消すことのできない差である。相手は意識もしていないだろうが、私はこの点が気になってしょうがない。他人以上にそれを意識してしまうがゆえに嫌いなのである。

 話を戻すと、それを眠りという完全に孤独な行為から離れるその瞬間になぜ他人が介在する必要があるのかという疑問が生じるわけである。基本的に我々が生きる上で他人が何をしていようが関係はない。そもそも先の人々が差をつけたがっている「他人」とは誰なのか。他を意識しすぎるがあまり、それは完全に世間一般に共通のイメージとしての「他人」の生活が存在していて、それはどちらかというと怠惰な生活をしていると勝手に解釈しているというだけなのではないか。もちろん実際に統計を取ったら早起きよりは遅く起きる人が多いのかもしれないが、そこに才能や実力の差があるかはなかなか比較が難しいように思う。
 そして、一般イメージとしての「他人」が遅起きをしていたとして、ではそれが彼の幸福度にどう影響しているかはこれこそ測り得ない。私個人としては人間の営みすべては個人の幸福に影響すると考えている。大概人間が行動・選択する最大の基準は「それが私に対して幸福をもたらすか」だろうと考える。その論でいくとかの「他人」は遅く起きることをあえて選択し、淡々とのうのうと人々の頭の上で生きているのだからこれが彼の幸福なのだ。早起き推奨組の人々にはそれを批判し、阻害する権利はない。あるいは逆張り、彼らの幸せに対する劣等感からくるとも考えられる。

 いずれにせよ、人はどう生きようが自由だ。他人を害しさえしなければ。それも他人を意識しているようだが、結果としての話である。きっかけとしては何をしようと人間は自由なのだ。だからこそ私はじゃんけんを避けつづけ、ただのうのうと遅く起きることを望む。本当に書きたかったことはまた今度にしよう。

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