自分の顔の大きさで悩んでいる人へ
導入「顔と小顔と評価」
顔
私たちにはもれなく顔がついてる。その顔たちは決してどれもこれも同じというわけではなく、すべて互いに異なる。
逆に、なにか物が複数ありそれらは互いに異なっているが、しかし人間の肉体上における位置だったりコミュニケーションにおける役割などで同一のものを担っている「それら」が、人間によって「顔」という類genus,groupに分類さえ、「顔」以外のすべてから分別されているとも言える。そして顔は種speciesとなるのだ。
人間により分類された「顔」は、よって類の名前である。個々の種である私たちの顔は、互いに異なるために、違い、つまり種差を持っている。顔の種差とは目と目の距離感、鼻の高さ、口の大きさだったりが異なることである。
小顔
現代では、私たちはそれら種差を総合的に判断することによって、
小顔である/小顔でない
という評価を自己や他人の顔に下すようである。
殊更に、現代では自分の顔を「小顔」に見せかける方法として、「マスクの着用」が当たり前のこととして通用しているのである。
主張「合理性はマスク小顔効果を保証しない」
現代のマスクが前提として仮定する平均人という悪魔
現代のマスクは、いうまでもなく大量生産の産物であり、マスクとは、もっとも多くの人の顔massにフィットするように作られている。つまりその製造工程において、「最も平均的な人の顔」が想像され、そのような顔を持つ人物つまり平均人が存在するということが仮定されるのである。
中世のマスクとは、現代のそれらとはそもそも使用目的が違うし、オーダーメイドが主であったので、マスクの製造過程においては平均人ではなくその客を見れば十分であった。
平均人の存在が小顔論争において最も重要であるという災害
「あなたは小顔である/小顔でない」という小顔論争は、「大きさ」がっ議論の的になるのでそこにもやはり平均人の存在が前提される必要がある。なぜならば「大きさ」とは数学的に相対的な尺度だからであり、つまり「〇〇より大きい」「〇〇より小さい」といった形式formatで議論されるものだからである。そして小さいというものはまた「平均より」という接頭が省略されているものであって、やはり平均の大きさの顔が想定されているのである。そしてその持ち主平均人は存在する必要が在るのである。
結論⑴現代の小顔論争は論理学的に順序を間違えている
マスクによる小顔効果とは、つまり「マスクを着用することによって平均人により近い顔の大きさに自分の顔を見せかけることができる」という内容のものである。しかし現代マスクのその大きさ一切は平均人の存在が「必要」なのであって「十分」ではない。つまり「平均人が着用するのが現代のマスクである」であって、「現代のマスクを着用すれば平均人になる」ではないのである。
結論⑵救済を黒幕に求めているという私たちの最大の過ち
これは単なる論理学上の誤謬で終わる話しではない。
小顔論争をそもそも引き起こしている大きな原因は、平均人にある。私たちが「平均人」をそもそも想定しなければ、想定できなければ、小顔論争自体は起こり得ないのである。しかし現実は非情で、そのような存在は想定できることを前提として仮定され、この不毛な論争によりたくさんの人々が「自らが小顔でない」というショックを受け悩みを抱えかねない現状を作り出している。
そして現代人、私たちの最たる愚行は、黒幕にそのショックからの救済を乞うているに等しいことである。
私たちはマスクに小顔効果を求める、しかしそのマスクは前述の通り大量生産の過程で平均人の存在を必要としており、つまり平均人が現代マスクの存在を保証しているのである。それを知ってか知らないでか、私たちはほかでもない、小顔論争を引き起こしている張本人である平均人が保証するところのマスクそのものに、小顔効果つまり救いを見出そうとするのだ。
これではまるで、イラクとイギリスではないか。
大結論「平均人の陰謀論」
このようにマスクの小顔効果は論理学的に誤りであり、また合理性の観点からも黒幕に助けを求めるという行為であることが判明した。
私たちは「顔」の種差を「私たち」によって保証しているという点が問題であると筆者には思われる。平均人は私たちが生み出した想像上の悪魔であり、その存在は私たちが成り立たせている、成り立たせてしまっている。そして成立した平均人によって私たちは「顔の大きさ」という相対的な問題に取り組もうとしたのだ。しかしこれが原因で苦しむのは私たち人間である。これでは犬を飼っていて、逆に犬に飼われている飼い主である。
私たちは頭の中で飼っている平均人をもっと謙虚に扱うべきなのだ。