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「No」という勇気を。
「能、観にいかない?」
「へ??No?脳?」
友人からとつぜんのお誘い。聞きなれない言葉が一人歩きをして、解釈があちらこちらへと駆けまわる。
「能だよ!伝統芸能の」
「ああ!能」
何度か言われてようやく会話が繋がる。底知れない好奇心でクラシックなものから現代アートまで着実に守備範囲を広げている、彼女らしい提案。
ぜひ!いってみたい!
とこちらの好奇心もウズウズとする。
だが、私は能に関してまったくの素人だ。知っていることといえば、世にも奇妙な表情のお面をつけ、ゆるりゆるりと舞い歌うような口調でセリフを詠んでいたなあと浮かぶくらいで。
だが、一度はこの目で観てみたい…
と三十路を過ぎたころからふんわりと思っていたこと。
でも高いんじゃない?
場違いじゃない??
など不安は過ぎるも、なんとちょっとしたランチ代ほどで鑑賞できるとのこと。これはビギナーにはもってこい!と勢いにまかせて未知の世界に飛び込んだ。
・
当日。
水道橋駅をおり、会場に向かう。
昭和レトロを思わせるマンションだったり、ちょっとした坂道だったり。そんな街並みがいかにも文京区らしくて、つられてこちらもおすまし顔になる。
ぽかぽかと陽気な日には、お空をながめて春を感じていたい。
ぼんやり歩いていれば見落としてしまいそうな外観。ながい歳月をかけてじっくりと街並みと調和してきたのかな。
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人のぬくもりの感じる温かみのあるロビー。
ベロア素材の赤いソファー生地と、あかるい色味の木素材が、どことなく近所にあるミニシアターに近い雰囲気を覚える。
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あたりを見渡すと、ベテランの鑑賞者?それとも関係者の方?と思わせる、背筋のピンと伸びたマダムたち。お召し物も一風変わった、カラフルな真鴨柄があしらわれているものだったり。センスとこだわりの意識の高さが漂う。
かと思えば、初心者の私と友人と同じくらいの年齢の方もいれば、ひとりで来ている若そうな青年もいる。あちらの方には、英語ではなしている外国の方も。
みんな思い思いの理由があってここに来ているのだなと知って、ほんのすこし肩の力が抜ける。
午後2時から17時までの、みっちりな能の時間。
途中しばしの休憩を挟みながら、
「能」とは一体なんなのか…とひたすら向き合う。
正直なところ、なんにもわからない。
気の遠くなるながい長い伝統を、昨日や今日のことで、よくわかった!とは気安く言えやしない。
ただ、ひとつだけ。
そこにある「気」をいくつもいただいてきたように思う。
主人公(シテ)は、表情の見えない能面をつけている。その面をつけることで、役に入りこむスイッチを切り替えているのだとか。
それにしても、あの血の通っていないような面はなんとも不気味だ。納豆のパッケージに描かれているおかめくらいに微笑んでくれてもいいのに、この面の無表情ときたら観るものの心をひやりとさせる。
だが、じっくりと眺めているうちに、じわじわと笑っているようにも、泣いているようにも、もの思いに耽っているようにも見えてくる。
その表情をひろうたびに、不思議と
「わかるよ」
と、言ってしまいそうになる。
なんにもわかっていないはずなのに、ね。
ながい時間、能面と向き合って、
最後はなにかに納得したかのようにすんとした表情に戻って、するりするりとあるべき場所に戻っていった。
笑ってはいない。泣いてもいない。
悩み苦しんでいる顔でもなかった。
・
「寝てたね」
いかにも入り込んで観能(能を鑑賞することを観能というらしい!)していたかのように感想を述べたが、ビギナーには贅沢すぎる尺で、ところどころこちらの世界と違う世界を行ったり来たりしていた。
高らかな楽器の音色と、なだらかな人の言葉が、心地よい方向へと導く。
「大丈夫よ、きっと」
帰り道の電車のなか。能の感想、仕事のこと、世の中のこと、なんでも話せてしまう彼女にそう言われて胸を撫で下ろす。
大丈夫。
これから新しいことに挑戦していくタイミングで、何かを選んで何かを選ばないをしていかなくてはならない。
挑戦することばかりに目が行きがちだけれども、手放すのにも同じくらい体力は要る。
「Yes」と言うことは、
何かに「No」と言うことでもある。
あの最後にみた表情は、
なにかに心を決めた瞬間だったのではと思う。
目を閉じて、深く息を吸い込む。
見えないお面をみにつけたら、
魔法を“かける”みたいに、力が湧いてくる。
そのパワーをしばし拝借して、
「Yes」と決断するとき
「No」と言う勇気を培っていこう。
<参考文献等>
・宝生能楽堂 ホームページ
・初心者向け 能・狂言 解説映像「能楽堂へようこそ」
・「能面」の意味と種類。笑ったり泣いたり、実は表情豊かな能面の秘密