ひとり焼肉の流儀。
平日のランチタイム。
人が流れ出す、12時よりも少し前の時間帯。
ひと足先にお昼のために街に出かける。
いつもの朝より早めに活動をはじめていたので、それに応じてお腹のスタンバイにも拍車がかかる。
普段なら午後に響かないような、軽めの軽食を好むのだけれど、今日はなんて言ったってお腹が空いている。
白米に合う、コッテリとしたおかずを身体が欲しているのだ。
そうなれば、大体の選択肢は限られる。
午後のことを思うと、そんなにゆっくりは食していられない。お手軽に、ガッツリといただけるものを。
あそこのボリューミーな定食屋さんか、そこにある本格的な窯焼きピッザもいい。もしくはあの通りの…
焼肉屋さん!
一度、あの香りを思い出してしまえば、もう口が喉が身体が一体となってそれを求め出す。
よし!お肉だお肉~~♪
平日の、お昼どき。
しかもひとりで、焼肉だなんて…
と思っていた。
けれど、美味しいお肉をひとくち味わえば、そんな不安は一気に吹き飛ばされる。
“美味しい”
この感情に勝るものがあるのだろうか。
焼肉といえば、
キャンプ場や大きなお庭の一角で、友人や同僚たちと催すわいわい賑やかな会。
あるいは、スーパーで調達してきた食材を、ホットプレートなどを使って、ダイニングで家族と肉を囲む食卓。
週7日のうち、1日なんてものじゃなく、月に1回や2回あればいいほどで。決して日常ではない、特別なワンシーン。
こんなイメージがあった。
それがどうだろう。
現代に生きる女性(私)は、ひとり、テーブルに備え付けられているこの小さな網で、肉をいちまい一枚、丹念に炙っている。
最初は強火で、お肉の油が炎の威力を加速させれば、すかさず火を弱めて。
焦らずに、じっくりと焼き上げる。
自分のためだけに焼いているのだから、あの子の皿が空いてる、次はお野菜を焼いて…などと余計なことは考えなくていい。「焼く」という任務だけに、ひとり、まっすぐ向き合う。
もういいかな、もうそろそろかな。
とゆるくなった唇を噛み締めながら、ただただ肉を見つめる。
肉と、燃え上がる炎を背景にこんな考えが浮かぶ。
ずいぶんと昔のこと。
自分の食べるものを狩猟していた、まだ文明が発展していなかった時代。
「火」という文化が生まれた。
暖を取る、明かりになる。という生きるための術が、次第に「料理する」というひとつの調理方法に繋がり、狩猟してきた肉を「焼いて」食べるようになった。
生肉では飽き足らず、肉を焼いてみよう!という考えに至った、その時代を生きた先人の生き様が、
なんてグルメな発想なのだろう、と脳内を楽しくさせる。
また別の時代。
「食肉禁止令」が発布された。質素倹約に農業に勤しむことがステータスだ!と農民たちに謳いながらも、しっかりと税(※当時の税はお米)を納めるようにとの思惑が込められた禁止条例。
表向きは「はいはいそうですか」と応え振る舞いながらも、実際に従うかどうかは別の話。一度うまいを知ってしまった人間は、そう簡単にはひきさがれない。
のちの時代に、同様の禁止令が打ち出されてもなお、こっそりと肉を食べ続けてきた人たちがいると言う。肉への愛、いや、食欲への好奇心はおそろしいほどに底なしなのだ。
やがて明治時代。
肉を食べて体力をつけよう!と急な路線変更とともにスローガンが打ち出される。
そうして西洋から牛肉文化が入り、「牛鍋屋」の食べどころが流行り、一般家庭に肉を食すことが根付いっていった。
そうして、現代に至る。
1年の終わりを迎えようとしている師走のとき。
平成、そして令和を駆け抜ける女性(私)が、ひとり、テーブルに備え付けられている文明の力を使って、肉を炙り食している。
かと思えば、口の中のお肉が溶けてしまう前に、あわてて白米をかき込んでいるではないか。
「ああ、うまい!」と言いながら。
これも、時代を越える人々の肉への想いがあってこその瞬間なのだな、と噛み締める。
”白米のおかわり無料”
の文字に惹かれるも、後ろ髪をひかれながら店内を後にする。
肉と向かい合って、対話をして、物思いに耽る。
こんな時間もひとり焼肉の醍醐味なのだよなあと、微かにのこる香りに包まれながら余韻に浸る。
「さて、午後からも頑張りますか」
腹6分目の心地よさとともに、
みなぎる足を踏み出した。
〈お肉のあれこれメモ🍖🥩🍗〉
🍖その1. 〜日本人はいつから肉を食べるようになったのか。7世紀から江戸時代にかけて〜
🥩その2. 〜「肉食禁止令」から肉食文化が根付くまで〜
🍗その3. 〜欧米か!牛肉ブームが止まらない〜