アドバイスを求められてないって気づけよ。
知らない人気YouTuberが、知らないうちに不祥事を起こして、知らないうちにスーツを着て、知らぬ間に黒く染めた頭を下げて、その動画が知らぬ間にニュースになって、知らないうちにトレンドになり、知らぬ間に反省している。
これを世間知らずと呼ばれてしまうとそれまでなのだけど。
世間についていけない私でもちょっと面白いなと思っているところもある。
何が面白いかって、まったく知らない人の浮気なり不倫なり、パワハラなりセクハラにそんなに熱くなれるんだな、という点。
純粋にすごくないか、そのエネルギー。
そして知らない人が勝手に炎上して、知らないうちに世界からいなくなっていく。
そんな知らない世界のことなのに、その人は必死に叩くし、その人は必死に頭を下げてるし、よくわかんない。
なんでこんなに人の悪いところを完膚なきまでに叩く世界になってしまったの。
あと、Googleの検索窓に言葉を入れた時に予測変換に
「●●(人名) 死亡」「●●(人名) 気持ち悪い」
とか出てくるの本当に辞めてくれないかな。
何がDigital Wellbeingなんですか、グーグル先生。
その思考もアイデアも技術も、幸せになるために使えよ。
世間に飛び交う成功者たちの声。
あの人はあちこちで称えられて、本も出して、有名だ。
そんなことは東京で過ごしていれば山ほどある。
みたいな。
何を持って、誰が成功したと判断をしているのだろう。
そして、何を根拠に成功したと思っているのだろう。
それを単純に疑問に思うことがある。
成功者多すぎないか。
それ以外の人たちは何だ、不成功者か。非成功者か。成功者以外か。
じゃなんでこんなに社会は不幸せになってんだ。
成功ってなんだよ。
じゃあ子どもを必死に育てて働いてるシングルマザーのお母さんは失敗ってか。
サイゼリヤにデートに行くカップルは残念な失敗カップルってか。
それはその人の価値観だから、その人が成功だと思えばそれでいいんじゃないですかね。ってこと?
そんな逃げ方あるかよ。
今の社会は自己責任論があまりにも強すぎる。
そんな社会についていけない、そう思うことが多い。
卑屈にはならない。
卑屈になる必要は何一つない。
だがしかし、コメンテーターにも予想家になってはいけない。
手の届く範囲の小さな社会に何ができるのか、寄り添うことができるのか。
夢は見続けて、もがき続けていたい。
つくろうという気持ちは持ち続けないと、私が私でいられずに死ぬ。
あなたの言葉が聴きたい。
感情が乗っかった言葉が聴きたい。
優劣とか上とか下とか、白黒じゃなくて。
この音楽を通して、この演劇を通して何を思ったのかを知りたいんだ。
それはアドバイスを求めてるんじゃないの。
あなたにはどう見えたのかということを聞きたいんだ。
もっとこうしたほうが良いよ、じゃないの。
あなたの目の前で繰り広げられたもの、ないしはあなたの身体に入り込んできたものについて、あなたは何を感じたのか。
そして何故この作品が生まれたのか、何故あなたがそう思うまでに至ったのか、会話をしたいし対話にしていきたい。
だけどさ、あなたが発する文字には優劣をつけようとする言葉がたくさん散りばめられているじゃない。
それ、この作品を下に見ているから出てきた言葉ですよね。
ってことが本当にたくさんあるんだ。
なんでみんな、アドバイスをしたがる?
ビジネスの世界を見てても、スポーツを見てても、就活だってそう。
どの立場でアドバイスしてんねん。ってことがあまりにも多すぎる。
あなたは私の人生の何を知っていて、何を分かったうえでその発言をしている?文脈はどこ行った?
「せっかくのアドバイスなのに謙虚に人の意見も聴けないのか」
うるせえ、お前よりこっちはもっとでかい夢見てんだよ。
結局、年功序列の仕組みが身体に頭に心に沁みこんでるじゃないか。
2021年、F1の日本人ドライバー角田裕毅選手もインタビューでそんなことを話していて、その言葉ずっと胸に残っている。
(ソース見つからなかったから当時のTwitter↓↓)
「自分の意見を持ちましょう」って誤ったアクティブラーニングが広がってた?
「なんでもいいから一つはアドバイスをしてみようね!」とか、そんな授業をもしかして"PBL(課題解決型学習)"とか言いながら学校で実践してる?
そんなこと、耳にタコができるほど聞いてきたし、たぶん私が高校生にファシリテーションしてた時も言ってたんだろうなって思うけど、
そんな自分に反吐が出る。
"1 Like 1 Wishカード"みたいなコメントを書いて、意見が言えるようにしておこう!とか考えて、それを正義かのように立ち回っていたけれど
寄り添える力も考える力もないなら、そんなの必要ないじゃないか。
どれだけ薄いことをやってきていたのかを酷く痛感。
課題を課題と捉えるな。
そこには確かに生きている人間がいて、その痛みが分からないうちに、それを"課題"と呼ぶな。
その"課題"を勝手に解決しようとするな。
その"課題"への解決案をお前が判断するな。
当事者が抜け落ちた課題解決型学習ほど地獄なものはなかったかもしれない。
いかに私がやってきたことが滑稽だったか、思い知らされる日々を、
私はいま高校生たちと演劇をつくりながら過ごしています。
分かろうともしないやつが、歩み寄るな。
今夜おともしてくれていた音楽は、ずっと真夜中でいいのに。「あいつら全員同窓会」でした。