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翻案小説|伊勢物語『高子姫』

 梅の花が咲き、その香りが春の訪れを知らしめる頃に、もう誰も住んでいない東の五条の御邸の西の対にある家に訪れる男がいた。平安京に音聞く歌人であった。男は廃れ、雑草が茂る家の側に座り、昼はまたぼんやりと、春の季節ならではの長雨を眺めていた。いつかに恋焦がれた女に詠んだ歌を思い出す。そしてその恋の先に立つ哀れな自分に、あの歌と変わらず、あの恋は胡蝶の夢のようであった、と思ってしまったのである。

「起きもせず、寝もせで夜を明かしては、春のもととて眺め暮しつ」

 男が女を見たのはかの清和天皇の大嘗祭だった。すでに聞いていた評判通りの美しさであって、五節の舞姫など見れば激しい情熱を胸に覚えたが、同時にやるせなくもあった。花に例えようか、波に例えようか、何よりも美しい舞に焦がれても彼女はいつの日に御君の后となる人であった。だがどうしてこの思いを諦められるものだろうか。涼しげな顔で舞を終えた女を目で追っていた。そして去ろうとする女に声をかけてみるが、彼女は一瞥をくれるだけ、目を背けて離れていく。儚く消えゆく梅雨のようである女に、思いがなお激しくなるのも無理はない。

 女はまだ人家も整備されていない西の京にその頃は住んでいた。普通の人とは比較にならないほど、内面に優れた彼女を求めて男はその家へ通っていた。女はそれを拒もうとはしなかったが、何か悟っているように冷たさを感じて、もどかしい日々が続いた。

 ある日、男はひじき藻を送るついでに一つ歌を付けた。

『思ひあらば葎の宿にねもしなむ
   ひじきのものには袖をしつゝも』

 私を本当に思ってくれるならば、葎の生い茂る粗末な家でも、一緒に寝て欲しいのです。ひじき藻ではないが、私の袖を敷物にして、と叶わないことを願ってみる。

 女は、と言えば一過の激しい思いだけでない思いを寄せられてしまえば、それを受け入れないことも難しい。徐々に男に思いを傾けていたが、そんな中この関係をよく思わない家の者によって東の五条にある叔母の御邸の西の対へと隠された。

 男と女の関係は既に今日の噂話となっていた。かの歌人と、かの姫の恋物語である。他の人々が興味を惹かないのもおかしい話であった。だから女の行き場を知らぬ男の元にも居所が噂として流れ込んでくるのだった。そして男がその家をそっと覗き見ると、確かにあの人がいるのであった。

 男は五条のあたりにある邸宅に、密かに人目を偲んで通っていた。秘密の場所であって門から通ることはできなかったが、子供たちが踏んで開けた土塀の崩れたところから中へと入っていくのだった。月日を置いて見えた二人は以前よりも睦まじい関係になっていた。以前の女の冷たい態度も徐々に穏やかになっていった。しかし、それでも女は男からの求婚についてだけは黙り込むばかりであった。何日も暗い夜の中男は女の家を訪ね続けていた。

 放置されていた土塀の崩れた部分はあまり人が通るところではなかったが、男が毎晩のように通ったものだから、その噂もまた広がり、とうとう家の主人によって秘密の扉の前に番人が立つこととなってしまった。そんなこと知るよしもなく男はいつも通り彼女の元へ向かおうとするが、まるで自分を入れさせないためだけに立っているような番人が夜も遅いというのに立っているではないか。今日こそは、と何日も彼女に逢おうと通うが、番人がいなくなることはなく男は全く逢うことも出来ずに帰るしかなかった。あの関守を越えれば逢えるというのにその一歩が限りなく遠いと悲しんで咄嗟に歌を詠む。

「人知れぬわが通ひ路の関守は、宵々ごとにうちも寝ななむ」

 人の知らない私だけの通い路の関守は毎晩毎晩、束の間だけでも寝てほしいものだ。そんな歌を聞いてしまった女はひどい悲しみで心を痛めて、寝込んでしまった。そうしてどうしようもなくなった家の主人は男が通うのを許すのであった。

 それからも変わる事なく男は女に文を送るなどして求婚を続けた。女の身分は男の身分など霞むほどであったが、返される文や逢瀬時の言葉からは徐々に自分に対する恋心が淡く洩れて、男もまた溢れんばかりの激情を贈った。他人がいかにこの交際を噂しようと二人にとっては些細なことであった。

 二人にはいくつもの越えるべき壁があった。身分については言わずもがな、女は未来の后である。女の身内は決してこの交際を許さないだろう。それこそが女を、男との恋の世界の一歩手前で押さえつけていたのである。また噂も彼女の家へと伝われば毒となり、多くの障害を生むだろう。いや本当はすでに二人は毒されており、儚い恋も終わりへと近づきつつあったのだ。遅効性の毒であった。気づいた時にはもう引き戻ることはできず、幸せな結末など望めない淵に立たされているのである。求婚に黙り込む女の理由も既に分かりきっていた。だからこそ、男は女を盗み出そうと考えたのだ。


 その夜は月に雲が多くかかっており、足元も暗かった。男は女に手を差し伸べて暗い夜に逃げ出した。秋らしく少しの冷たさもあった。

「外とはこんな風になっていたのですね」

 女からはこの薄暗い夜の世界も、全てが輝く不思議な世界と見えているのだろう。瞳にも星々の輝きが見えるようであった。しかし留まっている時間はない。すぐに女の家はこの騒ぎに気付き、追っ手を出すだろう。男は女の柔らかい手を引いていく。

 男にとってこれは最後の賭けのようなものだった。捕まって仕舞えばもう逢うことはできないだろう。

 逃げていくうちに一本の川に辿り着くが、その川は足場が悪く、男は女を背負ってその川を抜けようとする。より深く夜は更けており視界も悪かったが、女は一つ光目立つものを見つけてようで、「あれはなに?」と無邪気に尋ねる。その視界の先には葉っぱから今にも落ちようという露があった。道行く先は遠く、その露は雨の予言である。男はなにも答えようとはせず、女もそれに納得しながらも、男の背中を乱暴に数回叩いた。

 雨が降る。

 稲妻が走り、耳を裂く音とともに暗闇を照らして雨に光が反射する。女は好奇心と怯えで体を震わせている。刻一刻と体は濡れ、体も冷たくなりつつあった。

 男は一つ小屋を見つけて、そこに鬼がいることも知らずに、女を隠す。

 一方女は一人になったことで不安や恐ろしさが心の底より上ってきて、涙となって落ちていく。小さくうずくまって静かに泣いていた。だからその場に現れた、恋仲でない男たちに、兄達からの使いの面も見れば鬼の面を見ることもできた。女は口元を抑えられ、跡形もなく連れ去られてしまう。その時女にはいくつの男の歌が思い出されただろうか。初心とは呼べないが、それでも真一文字の恋心を歌った数々に、女は「ああ」と辛く一言を漏らすことしかできなかった。その言葉も秋の雷の音に掻き消されてしまって、男の耳には届くことがなかった。

 男はもぬけの殻となった小屋の前に鎮座して、あるべき人を守っていた。次第に夜も更けてきて、雷もおさまり、男は小屋の中を覗く。しかしそこに連れてきた女の姿はなかった。同時に悟る。

 非常に辛く苦しく思い、行き場のない怒りを地に叩きつけるほかすることはない。地団駄を踏んだところで女が戻ってくるはずもなく、失恋の悲しさばかりが男の胸を窮屈にする。涙を流し疲れた男はただ歌のみへとその想いを乗せた。

「白玉か、何ぞと人の問ひしとき。露と答へて消えなましものを」

 ああ、貴方があの露を真珠か何かと尋ねた時、「露ですよ」と答えて、この身を露のように消してしまいたかった。消してしまえば、その思い出だけが永遠に、貴方と私は綻ぶことのない恋の中生きていられただろうに、と。


 雨が降っている。葉の上に伝う露は池の中へと落ちて消えていく。叶わずとも、激しい恋であった。露は目の前から消えようとも、その存在はずっと残り続ける。

 女は数ヶ月が経った後、男の手には届かないところに行ってしまった。そしてそれから一年がたった今でも男は誰もいない、女の面影を感じられるこの家に通っているのだった。

 日が暮れて、雨が止むと月が見えて、その月が梅の花を照らした。立って見て座って見て、さらに見てその月が傾くまで男は横になって、去年のことを懐かしく思う。そうして今もまだ変わらずに思う女への想いがふと口から漏れたのであった。

「月やあらぬ。春や、昔の春ならぬ。我が身一つはもとの身にして」

 ああ。この月はいつぞやの月とは違うのか。そしてこの春もまた、去年の春ではないのだ。何も変わらない月や春のはずなのに、私の身だけが元のまま貴女を思い続けているせいで、そう見えてしまうのですね。

 あなたへの想いとそれを歌ったあの歌のみが変わらず、永遠に変わらず残り続ける。

 そう男は想うのであった。

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