中編小説「思い出してはいけない」【冒頭試読】
ぼくはどうにも 自分の
名前が思い出せないのだった。
──清岡卓行
1
遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてパソコンの画面から目を上げると、カーテンの隙間からもう朝の光がこぼれはじめていた。その光のなかで水の入ったグラスが引き伸ばされたような長い影を落としている。冷たい水道水を口に含んでグラスを置くと、光のなかで水面が揺れて机に映ったグラスの模様の影も同じように動いた。サイレンの音が消えていって裏の高架を電車が走り抜ける間に、揺れるグラスの水も静かになった。
ふいにずっと前にこんなふうに影が動くのを眺めていたことがあったような気がした。そう、たしかそれは夜明け前の天井の梁の影だった。向かいの道を車が通るたびに、そのヘッドライトに照らし出された梁の影が不規則に重なりあいながら閃くように動いていた。狭いベッドにふたり身を寄せあって、めったに身体を動かさない青い深海魚にでもなったような気がするねとつぶやくと、こないだ水族館で見た不細工な魚でしょと紗月は笑った。あれね、あの変な魚。たしか名前に濁点がたくさんあって、なんていったっけ。さあ、なんでもいいじゃん。名前なんて忘れたままでいいんだよ。ううん、思い出さないほうがいい。けっして思い出さないで。いいかげんに相槌を打ちながら、わたしはつい彼女の耳の先をそっと舐めた。すぐくすぐったそうな顔をする彼女のその輪郭には、つねに微風が吹いているような気がしてならなかったから。それが、わたしをこの上なくかなしませた。いまになってみても、こんなにもかなしい微風をこの地球上に知らない。それはきっとずっと向こうの遠い惑星に吹いているだろう、そんな微風だった。
軽いノックの音がして返事をすると、部屋のドアをちょっと開けてねずみさんが顔を覗かせた。
「おはよう。というか、もしかしてハルちゃんまた徹夜?」
「まあそんな感じ。でも、もうそろそろ寝ようかな」
思わずあくびを漏らすと、起きぬけのねずみさんもつられてあくびをしながら呆れたように小言を言う。
「もう、またどうせ締切直前になってから慌てて書いてるんでしょ。計画性ないんだから」
「これはライター仕事の原稿じゃないからいいの」
「じゃあ何を書いてるの?」
「……小説みたいなもの」
「へえ、小説?」
ねずみさんが意外そうな声をあげたところで、炊飯器のメロディが鳴った。
「あ、ごはん炊いたからハルちゃんも食べないかなと思って来たんだった。卵もまだあったと思うし卵かけご飯にでもしたらいいよ」
ねずみさんとの暮らしは、ずっとそれぞれにどこに向かうともないひとり旅を続けているようなものだ。裏の高架を電車が走るたびにがたがた揺れる小さな2LDKのなかで、わたしたちは毎日顔を合わせたり合わせなかったりしながら暮らしている。小さな出版社の契約社員とフリーランスのライターを掛け持ちして昼夜逆転に近いような生活をしているわたしと、毎朝きちんと満員電車で通勤して予備校の教壇に立っているねずみさんでは、生活リズムがからきし合わないし、もともと合わせるつもりもなかった。炊事洗濯も各自だし、居間や台所などの共用スペースの掃除やゴミ出しももともと当番制だったのがいまでは気がついた方が気がついたときにやるような習慣になっている。
ときどきタイミングが合うときには、こうして炊きあがったご飯や作りすぎたおかずなんかを分けあうことがあるけれど、一緒に食卓を囲むのはそういうときくらいのことだ。それぞれに好きな分だけご飯をよそってきて、かき混ぜた卵を少しずつ乗せ醤油を垂らす。ねずみさんは自分の分のインスタント味噌汁に電気ケトルのお湯を注いでいるが、わたしは味噌汁がいらないので先に卵かけご飯を割り箸でかきこむ。四年ほど前にそれぞれひとり暮らしの住まいから持ち寄った食器はどれもおそらく百円均一ショップで買ったのであろうプラスチック製の安っぽい不揃いなもので、しかしこれがかえってこんな旅の生活には適しているような気がした。なんといっても、こういう食器たちは落としても簡単には割れることがない。
「そういえば、こないだ同級生にねずみさんと住んでるのばれたんだよね」
「へえ」ねずみさんは少しきょとんとした。「ハルちゃん、僕と暮らしてるってこと友達に隠してたの?」
「いや、隠してたわけじゃないけどさ。なんか他人に説明しづらいじゃん」
先週、居間で中高の同級生とビデオ通話をしていると、早めに帰宅したねずみさんが画面に映りこんでしまったのだ。案の定、「誰?」「彼氏?」「聞いてないぞ?」とみなが口々に騒ぎだした。
「さっきの男はただの同居人。彼氏じゃないよ」
それからも質問攻めに遭い、ふたりの間には特に恋愛感情も性的関係もないこと、結婚する予定もないこと、数年前に行きつけの新宿のバーで親しくなったことなどを回答した。
「遥って、そんなだからいつまでも彼氏できないんじゃない? あ、ごめん。遥の場合は彼女だったっけ」
せっかくの期待が外れたせいかひどく不満げな千夏の発言に、その場のみながそうだそうだと同調してわたしを槍玉に挙げた。そこまでは予想通りだった。しかし、由香がこう言ったとき、わたしはひどく困惑してしまった。
「だってさ、たしかになんか遥ってもともと恋愛とかよくわかってないみたいな感じするもんね」
わたしの戸惑いが伝わったのか、由香は付け加えた。
「だって、中学のときだっけ? 高橋と三人で話してて、高橋と遥の好きな人が同じだってわかったのね。ほら、サトミナだよ。その時期、あの子もてたよね。それでね、遥ったら、わーいお揃いだってハイタッチしようとしやがったの。いや、本当本当。ありえないでしょ。ドン引きだよ」
画面に映る一同はすっかり呆れたような笑い声に包まれ、わたしも適当に合わせて笑っておいた。たしかに、そんなこともあったかもしれない。ねずみさんとだって、かつてはその種のハイタッチをした仲ともいえるだろう。
ごはんをラップで包みながら、数年ぶりにわたしが紗月の名前を口にしたとき、ねずみさんは窓の向こうをじっと見ていた。窓の向こうでは、コンクリートの白い壁の前でハナミズキが強い風に揺られていた。斜めに差しこむ冬の朝陽にくっきりと照らされて、葉をすっかり落とした細い枝々はほとんど虐められているようにさえ見えた。