人生が100秒だったら: 40秒目
お芝居なんですよ!
「お昼休み、空いてる会議室があったら使わせていただけますか?」
「いいけど、何に使うの?」
営業部の部長秘書、○野さんに聞かれた。
この数ヶ月、会社帰りに劇団の俳優養成所に通っていること、あと2ヶ月後に卒業公演があって、自分にも役がついたこと、ついては昼休み誰もいないところで練習したいと思っていることを説明したら、快く鍵を渡してくれた。
覗きに行っちゃおうかな?と言われたので、恥ずかしかったけど、はいと答えた。
新入社員として配属されたグループセクレタリーという仕事。はじめの内、横文字名前の響きに惑わされていた私は、半年経っても、お茶汲みやタイプ、電話番から一向に進歩しないのに我慢の限界だった。営業やらリサーチやら何らかのプロジェクトに関わっている同期の男子の話していることがわからない、、
雨垂れタイプを打ちながら悔しくって、本物の涙が出た。
開き直った。
長年の夢だった「俳優」にチャレンジすることにした。
人生いちどきりだ。
I have nothing to lose.
鼻息だけで、文学座、無名塾と手当たり次第受験し、ことごとく落ち、それでも諦めきれず唯一受かった青年座の夜学に通い始めた。会社を定時に引き上げ、代々木八幡に駆けつけ、駅前で買った肉マンを頬張りながら通った、あの充実感。若さという特権の高揚感。上司からタイプの誤字脱字を怒られても、まったく気にならなくなった。
卒業公演間近、カセットテープで遠慮気味に音楽をかけながら踊っていたら、お弁当を持った○野さんが会議室にやってきた。
「セリフは無いの?」
踊り子の役だということ。ちょい役だけど、なかなか振り付けが覚えられないこと。ハリウッドのプロデューサーの前で彼を誘惑しようと編みタイツ姿で踊る役がなんで自分に回って来たのかわからないことを話した。踊り自信ないのに。
誘惑の踊りをお弁当を食べながらニコニコ見てくれた○野さんにも、手作りの招待券を渡した。
当日、100人余りでいっぱいになる劇場は関係者(ほとんどが家族)で満席だった。前列の見やすい席に祖父と祖母をエスコートしながら母が着席できたことを舞台の袖から確かめた。一世一代の舞台デビュー。
私が主役。みんなが主役。
演目は「ステージドア」(確かそういう名前だった)。ブロードウェイで役者を目指す若者たちが一つ屋根の下で暮らしながら、夢を追いかける。夜学の卒業公演だけあって、劇団員全員に満遍なく出番が回ってくる。ひとりひとりが主役と言ってもいい、青春ドラマだ。
30数人分のまっすぐな眼差し。ひたむきな姿。
私の出番が来て練習の成果を熱演していた時だ。観客席前列から不意に聞き覚えのある老人の声が上がった。
「ミドリは!」耳が遠い人は声が大きい。
「しーっ」と、おばあちゃん。
もう一度、「ミドリは!」と、おじいちゃん。
制止するおばあちゃんの声が耳に入らないらしい。
「しーっ」と、おばあちゃん。
懲りずにおじいちゃん、
「ミドリは、いつもと違うね!」
舞台用の厚化粧と編みタイツのことだ。
何度かこれが繰り返された後、たまらなくなったおばあちゃん、大音量で
「おじいちゃん!あーれーはー、お、し、ば、い。お芝居なんです、よっ!」
負けずに大音量で、おじいちゃん
「なに?」
「だーかーらー、あれは、お芝居!」
やっきになって、おじいちゃんを黙らせようとするおばあちゃん。
観客の吹き出す声。
そうだ、あっぱれ、これはお芝居だ。がんばれっ!頭が真っ白になった私は踊り終えるのが精一杯。
王様は裸だっ!という声が聞こえてしまったら、もう後戻りはできない。
観客の緊張の糸はそこでプッツン。
生徒達のお芝居にそれまで何とか付き合っていた劇場の空気は一変した。
そこから先、芝居の内容に関わらず、何があっても笑うこと、ウケること。感動の青春ドラマから一転して爆笑コメディとなった卒業公演は、ある意味大成功だったのかもしれない。
劇団は今でも代々木八幡駅にある。今は、もう降りる用もなくなった代々木八幡駅を通る度、思う。
あの時の30人は今ごろ、どの辺りで、どんなドラマの主人公なのだろうと。