絵師の自己愛と自己肯定感と自己保存について考える

表題は絵師の…だけど絵師に限らないんだけども。
この件を再考するにあたってのきっかけがこちらの絵師さんのnoteからである。

なるほどなーとふむふむ読んでいたらうっすら思い出したのだが、おそらく昔雲上人Aさんに言われたのではないかと思うが、私が
「自己愛苦手なんですよ」
っつったら
「自己愛なんでみんな持ってて当然でしょ!そんなに自己愛ないんだったらこんな即売会に出ないで絵を描いても誰にも見せなきゃいいでしょ!!」
とこれまた憤激されたようなうろ覚えがあるのだ。
他の強烈エピソードに紛れて忘れてたが。

雲上人Aさんについてはこちら

んでまあ、私もよほどのことがない限りあんまり荒立てたくはない人間だし、そもそも口の立つ人間ではないのでその時はとりあえず反論するのは諦めたと思う。
が、私の中ではそれでも「絵を描いて公開する=自己愛『ではない』」のでしばらくいろいろ考えたと思う。当時。

私の絵を描く活動に対する一番ぴったりの比喩は「描く=排泄」である。
溜まったら出したくなる。
ただそれだけである。

実はこれは、夭逝した画家、神田日勝の言葉だったと記憶している。
うろ覚えなので検索したら出てきた。

神田日勝は、何年か前の朝ドラ「なつぞら」で吉沢亮が演じた夭逝した画家のモデルである。

学生時代に神田日勝の絵を見て鳥肌が立った。
室内風景シリーズと、絶筆の馬の絵だ。
多分、その絵を見に行った時のパンフレットか何かに書いてあったのかもしれない。
そこの記憶は曖昧だが、その時、自分の感覚も同じだと強烈に感じたことは覚えている。

そして私は実際Aさんに出会う、つまり同人活動を始める前は全く外に出す予定のない落書きを毎日量産していた。
つまり、毎日溜まったものを排泄していたのだ。

私や文書きの相方は毒親または準毒親育ちであるので、いろいろ溜め込むことが多く、メンタル的に不調なのが通常営業であった。
なので学生時代から心理学の本や精神分析の本とは仲良しだった。
そういえばそういった本で最初に読んで衝撃を受けたのは、中学時代に読んだ加藤諦三氏の本だった。
今ならいろいろツッコミどころもあるのだが、中学生には衝撃だったのだ。
そのあとフロイト、ユング、アドラー…と割と順当に手を広げた。

その後も心理学は私の興味のかなりの部分を占めていたけれど、それらの独学(と言うには浅すぎるのだが)といろいろな経験から結局自分の中では「自己愛」を優先した時の心境は自分自身で思い返しても醜く卑しくて、見るに堪えない代物だと言う結論に至った。
そして「自己愛は『自己肯定感の代償として』歪んで育つ」と結論付けた。

絵に限った話ではなく、例えばお喋りをしていてなんでも人の話を引き取って自分語りにすり替えてしまうタイプの人がいる。
反射的には「自己愛強すぎて引くわ…」と思うが、逆に「足りない自己肯定感を補うのに必死なんだな」と同時に思う。
自分で自分を肯定できない分を他人の承認という形で求めているのだろう。
なので、自己愛と自己肯定感は反比例の関係であると思う。

そういえば思い出したけど、なんか同人界隈の超大手有名作家に、私と名指しせずに当て擦りを連続してその人のweb日記に書かれたらしいことがあった。
(なんで私のような超零細同人活動家を見つけたのかは知らないけど)
その人は多分今でも名前を出すと「ああ、あの人…」とある程度の年数活動してる人にならわかってもらえる人だと思う。
数年前にも旧Twitterで呟いているのを見たことがあるので今でも活動しているのだろう。
超絶ベテランということになる。
で、その人は李徴のように自らを恃む人だったので、いつも文体が特徴的に「私様マンセー」だった。
で、私は当て擦りが続くのがウザいので自分の日記に(万が一、私のことでなかったらという可能性もあるので)名指しではなく一般論としてこう書いた。
「自己愛強い人って一人称多用するよね」

結果、その人は毎日書いてた日記をピタリと止めた。何日も。
数日間止まった日記を再開した時、その人は私に無関係なことを書くようになった。しばらくは一人称を使わずに。

まあ↑のエピソードは完全なる脱線なので意味はないけど、そんなこともあった。という話。

完全に脱線したので話を戻すと、おおむね自己愛と自己肯定感は反比例関係にあるという話。
つまり、自己愛として表出する言動の根本には自己肯定感の低さを補う反動形成があるという話である。

実際、自己愛バリバリでものすごい圧かけてくる人の言いたいことって「自分を認めろ、自分を認めろ!」しかないわけで。
他人に「自分を認めろ」ってゴリ押して来るのは「自分が自分を認められないので、他人のお前らがその分を補え!」ってことで、そんなん他人のせいやないやんけ、としか私は思わない。
他人にゴリ押して来るより先に自分で自分を認めなよ、と思う。
勿論、本来そういう絵師らも自分で自分を認めたくて絵を描いて…ひいては同人活動をしているのだろうとは思う。
だけどその方法論を間違ってるので、結局自分で自分を認めるという「あらまほしき結果に結びついていない」のだと思う。

では彼らの方法論の何が間違ってるのか?

そういう人らは大体「一発逆転ホームラン的にすぐに結果を欲しがる」ので、それで好きでもない他人の絵や技術を盗んで当然と思っている。
盗む方が自己研鑽を積むより早い(と思ってる)からね(現実には画力なんて切り貼りで盗める代物ではないので徒労なんだけど)
なんで好きでもない他人の絵や技術を盗んで当然と思うかっていうとまず視野狭窄で心に余裕がないから、そんなふうにされた他人がどう思うか考える余裕がない可哀想な人たちなんだと思う。
まあ可哀想な人とは思うが同情はしない。
いい歳して幼稚な振る舞いやなとしか思わないので。

そんでなんで好きでもない他人の絵や技術を盗む羽目になるのかというとその人らが口で言うほどに「好きな絵師」はいないのだと思うよ。
だって「自分が一番」だからね。

他人を真に尊敬していないのだと思うよ。
「自分は『ひとかど』の絵師」だと思って(傲って)るので、参考にするべき技術なんてもはやないとでも思ってるんじゃないかな。
仮に罷り間違って技術が足りない部分が発覚してもソッポ向きながら他人から盗めば(相手の絵師に目を合わせなければ)バレないと思ってるし。
逆に言うと、真に尊敬する人が一人でももしいたなら、そういう行動はしないと思うのだ。
私が認識を変えた天上人のような人がもしその人らにいたなら、恐らく。

私の認識を変えた天上人についてはこちら

でも、逆に言うと私は尊敬できる人がいたから道を踏み外さなかったのかもしれない。
尊敬できる人に出会えて、幸運だっただけなのかもしれない。
でも、その人らにだっていろんな絵師に触れる機会はあったはずで、その中に一人も尊敬に値する絵師がいなかった、なんてことはあり得ないのではないかとも思う。
であれば、周囲をちゃんと見ていなかったのはその人らの責に帰すのではなかろうか。

恐らくだけど、そういう人らの中では神絵師は「別ジャンルで自分には関係ない」とも思ってる。
表層意識では「とりあえず自分の狭い視野半径3m内くらいで自分が一番になれれば満足」くらいの認識ではなかろうか。
「とりあえず自分の狭い視野半径3m内くらい」で自分がボス猿になれれば表層的には満足…のはずなのに満たされなくて、潜在意識からの突き上げで「もっと、もっと、私への賞賛が足りない!」と思うのだろう。

長い年月で形成された自己肯定感の低さを「一発逆転ホームラン」で取り返そうとするのがそもそもの間違いである。
そりゃそういう人は自己肯定感低くて疲弊してるのかもしれないが、だからといって他人の絵を侵害したり傍若無人に振る舞っていいわけではない。
「自分が幸運に恵まれてないから」といって、他人の足を引っ張っていいわけではない。
第一他の人だって同じく疲弊しているかもしれない(実際驚くほど毒親育ちが多い)わけで、自分だけが不幸という思考は余りに幼稚と言える。
それどころか単に幼稚であるばかりでなく、「自分だけは報われるべき」というある種の選民思想に繋がる危険性すらある。

その人らは結局他人の作品を尊重しないから他人にも尊重してもらえないというごくごく当たり前の結論しか出てこない。

自分の自己肯定感の低さを顧みない、気づかないから自分の不満の原因を外の人に求める。
「報われるべき私を賞賛しない周囲が悪い!」と。

何度かこのnoteで書いてるけど、そういう人は「自分の心の奥底(潜在意識)の本音」に気づかないと自分の不満の原因を外に求めて、ずっと他人に謂れのない自己愛毒電波を浴びせ続ける。

今、鉛筆持ってデッサンしてみたらいいよ。
そしたら多分、そういう人は物陰になる部分を心落ち着けて観察してその通りに描くことなんてできないはずだよ。
きっと、浅い漫画絵知識上のテンプレ陰影に勝手に省略した状態でしか描けないはず。
物理的に存在している目の前のオブジェクトのリアルな陰の微妙な濃淡を見分けることなんてできないはず。

だってそんな密度で陰影を見分けることができるなら、自分の心の中の陰の濃淡=自分の本当の気持ちもその細かい密度の目で見分けることができるはずだから。
見たままの微妙な陰の濃淡を見分けることは自分の内面の陰影を見分けることに通じるよ。
それを見分けることができたら、
「そうか、自分の気持ちってこんな形してたんだな」
って理解できる。

でも絵=漫画絵記号上のテンプレって先入観がある人には現実の陰影の微妙な見分けはできない。
すぐに一発逆転ホームランが欲しいイラチだからじっくり観察するなんてとんでもない、と思ってる。
ずっと自己肯定感低いが故に自己愛が満たされない焦りに焦れてるから「心落ち着けて観察なんてそんな余裕なんかない!」とでも言いたいのではないか。

でも、実のところそう言う人らは間違った方向に努力してるから余計疲弊するのであって、自己肯定感が低いが故の疲弊だけではないと思うのよ。
自己肯定感が低いが故の疲弊だけなら、疲れたら足を止めて休憩すると思う。
つまり、漕ぎ続けないと倒れる自転車みたいに間違った方向に努力し続けないと思う。
自己肯定感の低さから自己愛にシフトしちゃった人は、立ち止まったら自分の間違いに気づいてしまいそうだから間違った方向でも漕ぎ続けるんだと思う。

でもだからずっと苦しいんだと思うよ。
自己肯定感を自己愛と間違って努力してる人は。
焦ってるのもそのせい。
そして焦るから余計に疲れる。
余計に疲れたらそれも人のせいにする、の無限ループ。

結局ね、自己肯定感と自己愛の反比例ってのは自己保存本能の作用だと思うのよ。
人間って生き物だから、生き物の特徴って成長だから。
成長することが特徴の生き物には、成長を続けるために自己保存本能がある。
自己保存本能がなかったら嫌な目に遭ったら即座にスイサイドしてしまう。
スイサイドを躊躇うのは生き物故の自己保存本能だ。
そしてそれは正しい作用なのよ。

だけどね、自己肯定感低いと自己保存本能の作用で自己愛機能が起動されてしまう。
自己肯定感低いままで自己保存本能働かなかったらそれこそスイサイドしなきゃならなくなるから。
だから自分を生かすための危機管理機能として自己愛発動する。
だけどこれは一時的で表面的な解決法で副作用が大きい。
一番いいのは健全に自己肯定感を育てることなんだけど。

だから、本人が自分のその危機管理的異常事態であることを自覚しないと危機管理モードから脱することはできない。
でないと自己愛毒電波モードの副作用がどんどん大きくなってしまう。

自己愛毒電波モードで生きてたら周囲との摩擦や軋轢が発生するはず。
だけど自己愛毒電波モードではそれらは他人の責ということにしてしまう。
そしてそれによってさらに周囲との軋轢が増幅してしまう。
それで余計苦しくなって「私ばかりが苦しんで不幸」となって不幸のデフレスパイラルに陥る。

結局、自分で気がつくしかないのだ。
自分の心の動きに注意を払って、自分の心の奥底に耳を澄まして。

そして、ちゃんと向き合えば絵は自分の内面と向き合う手助けになる。
絵は内面の写し鏡だから。
一種の箱庭療法でもある。
内面を写す鏡であるはずの創作をやっているのに、自分の内面と向き合わないのはもったいないことだと思う。

絵が歪むのはものを見る目が歪んでるからだよ。
先入観や自分の欲しい結論ありきの魚眼レンズ越しに描くからだよ。
自分の心を見分けられるのは自分だけなんだから、そんなことまで他人に求めるのは間違ってる。
だから自分がダメ脳内補正に気づかないとならない。

自分の心を健康にしたいと願うのならば。

と常々思う私であった。

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