【小説】思わず目を閉じた①
3両編成の、緑色の始発電車では、駅に降りるまでの40分間、立ちっぱなしである。1時間に一本しか運行しないため、高校生で埋め尽くされるのは、仕方のないことだ。
セーラー服のスカーフは、中々綺麗に結べない。ローファーは、履き初めこそ靴擦れを起こしていたが、ようやく足に馴染んできた。
泉は、高校1年生になった。
第一志望の進学校に無事合格した泉は、中学の頃からは想像し難い程、毎日が充実していた。
まず、中学の同級生が少ないというのは、やはり快適だった。泉のほかに、数名、接点のない男子が同じ高校であるくらいで、知らない人ばかりという環境は、新鮮であった。一から人間関係を築くことに関しての不安はあり、部活には所属しなかったものの、クラスで仲良い女子ができた。放課後、一緒に、高校の近所にあるスーパーのイートインスペースで長時間話したり、盛岡の街に繰り出したりするなどして、女子高生らしい日々を送っていた。
優子とは高校は離れたが、毎朝の電車で一緒になる。毎朝、電車内で、最近の出来事について報告することが、ルーティーンになっていた。
優子は、盛岡の商業高校に進学した。中学では美術部に所属していたが、心機一転し、ハンドボール部のマネージャーになり、彼女も、中学生とは打って変わって、多忙な毎日を過ごしていた。校則の厳しい高校のため、スカートを短く折る、長い髪をおろすなどが禁止されており、ドラマのような制服の着こなしとは無縁ではあった。しかし、きっちり結んだポニーテールや、綺麗にアイロンされたプリーツのひだは、清潔感に溢れ、優子にとても似合っていた。
桃は、中学2年生からの宣言通り、地元にある公立、西高に進んだ。西高は、母校の中学より北に位置するため、盛岡方面の始発で、西高の生徒とはまず遭遇しない。ゴールデンウィークに、優子と3人で遊んだ時は、応援歌練習の厳しさや、変わらない面々に文句を並べていたものの、新しい友人が出来、伸び伸び過ごせているようだった。
冬吾も同じく、西高に進学した。受験日に冬吾の姿を見たと、桃から聞いたのだ。
冬吾とは、手紙交換が途絶え、口を交わすこともなく、卒業した。携帯番号も、メールアドレスも、聞いていない。西高の学ランを着る冬吾は、どんな風に、日々を過ごしているだろうか。中学入学当初は、ブカブカのブレザーを身につけていたが、今は、そんなことはないんだろうな。漫画の登場人物のように、さらりと着こなすのだろう。
泉は、中学の卒業アルバムを、時々眺める。顎を軽く上げ、カメラを睨んでいる、冬吾が、そこにいる。周りの生徒は、歯を見せて笑ったり、軽く微笑んだりしている一方で、口の両端を下げ、不機嫌そうな佇まいをしている冬吾は、浮いて写っている。小学校の卒業アルバムでは、八重歯を覗かせていたのに。あの頃の無邪気な冬吾の、面影はない。
冬吾は、この3年間、どんな景色を眺めていたのだろう。どんな時に笑い、どんな時に苦しい思いをしたのだろう。泉はわからない。わからないまま、中学校を卒業してしまった。
「私ね、彼氏できた」
衣替えをし、始発の電車内が白に埋め尽くされ、爽やかになった頃、優子から打ち明けられた。
泉はこの日、若干の睡魔を引きずっていたが、この告白により、さすがに目が覚めた。
「待って、ゆうちゃん、おめでとうー。え、相手は誰、てか、どっちから、てか、いつから」
あまりの衝撃に、泉は狼狽えた。
「そんなに質問責めしないで」
「だって、人生初めての彼氏じゃん。いやー、眠気覚めた」
照れ笑いする優子が、急に大人びて見える。
「えっと、ハンド部の同級生で、あっちから」
「なになにー、いつの間にー」
「昨日、付き合い始めた」
「ほやほやじゃんー」
泉は、優子の肩を突いた。
「写真ないの?」
えー、と言いながら、優子は、携帯のフォルダに入っている画像を見せてくれた。
ハンド部1年生の集合写真で、後ろの列に立ってガッツポーズをとっている、背の高い男の子。長めの襟足や、くりっとした目が、漫画から飛び出したかのような、かっこよさがあった。
「素敵な人だねえ、なんて呼ばれてるの」
「え、ゆうちゃん」
きゃあー、と、泉のはしゃいだ声が電車内で響き、さすがに肩をすくめた。
「ごめんね、なかなか言い出せなくて。いっちゃんとこういう話することないから、ちょっと緊張しちゃって」
「うーん、ゆうちゃんが幸せになってくれるなら、許す」
「ねえ、いっちゃんは、いないの?」
「彼氏?いないいない」
「彼氏じゃなくても、気になってる人でも」
優子の問いに、泉は考え込む。
「黙ってるって、ことは」
優子は、痛いところをついてくる。黙ってるってことは、いるんでしょ、好きな人。好奇心を持った目が、そう叫んでいる。
好きな人、と呼んでいいのか。
泉は、ある人の姿を、頭の中で思い浮かべていた。
その本、面白いよね。
三木太一から、初めてかけられた言葉である。
泉が授業の10分休みに「対岸の彼女」を読んでいる時に、三木が覗き込んできた。入学して、1ヶ月ほど経過した頃であった。
「よ、読んだことあるの?」
泉は、後ろの席であるものの、あまり関わりのない三木を前に、たじろいでしまった。前髪を伸ばす髪型が流行している中、短髪にしている三木は、ヤンチャとは程遠い、真面目な生徒だ。同い年だが、落ち着いており、且つ、クラスの輪に上手に溶け込む社交性も兼ね揃えている彼が、眩しく感じていたのだ。そんな彼が、今、泉に、話しかけている。しかも、本の話。泉は、今まで、男子と本について会話をしたことがなかった。
「読んだよ。なんかさあ、ずっしりくるよね」
「ずっしり?」
「うん、葵の高校時代のシーンで」
ここまで言いかけて、三木は言葉を飲み込んだ。
「失礼、ネタバレするとこだった」
「うん、ネタバレされるんだろうなって思った」
泉が言うと、三木はくくく、と声を潜めて笑った。
「ネタバレされそうなのに、よくそんな冷静でいられるね」
「あ、確かに」
泉は、恥ずかしさのあまり、顔を赤らめた。
「三浦って、面白いね」
読み終えたら感想教えて、と言い残し、三木は教室を出て行った。
この日を機に、泉と三木は徐々に会話をするようになった。
本の話や、勉強の話、互いの中学の話。2人は、たわいのない話を、心置きなくできる仲になった。三木は、家から自転車で10分の距離に住んでおり、生まれも育ちも盛岡市だ。そのため、市外から時間をかけて、電車通学をしている泉に対して「下宿じゃないの」と驚きを隠せない様子だった。
高校でも、相変わらず男子とそこまで仲良くすることはない泉だったが、三木とは、なぜだか、自然に話すことができた。恐らく、三木の醸し出す穏やかな雰囲気や、落ち着いた声によるものだろう。そして、その姿に、既視感を覚えた。
山田宏樹だ。小学校のクラスメイトで、クラスの人気者の。頭がよく、スポーツ万能の。みんなと、分け隔てなく接することができる、宏樹に、似ている。宏樹は中学校テニス部で、三木もテニス部在籍である点も、かぶる要素なのかもしれない。
小学校6年生の時、宏樹と話しているところを、冬吾に見られ、一月ほど、口をきいてもらえなかったことを思い出す。あれは、絶対、私は悪くなかったよなあ、と、今更、口の中が苦くなる感覚に襲われる。そして、彼は、そんなことしないよなあ、と思う。三木は、大人で、賢くて、他人に執着なんてしないだろう。
挨拶も、自然と交わすようになった。朝、教室に入る時はもちろん、下校時、じゃあねー、と自転車を颯爽と漕ぎながら声をかけられることもある。1階にある自動販売機前を通りかかった時、「三浦、これあげる」と紙パックのジュースを投げられたこともある。
「俺、間違って買っちゃって」
そう言ったのにも関わらず、何も買わずに、その場を後にした三木の背中を見て、嘘つき、と泉は呟いた。
三木がくれた「ぶどうこんにゃく」を、泉はその日以来、よく飲むようになった。