【小説】思わず目を閉じた②
三木くんっていうの、その人。
いざ、優子の前でその名を口に出すと、耳まで熱くなる。
賑やかな始発電車で、泉は、一世一代のカミングアウトをした気持ちになっていた。
「へえ、ミキくん。いいねえ」
まだ名前しか知らない彼のことを、優子はしきりに「いいねえ」と褒め称えた。
「後ろの席で、最近話すようになって」
「うん」
「テニス部に入ってて」
「うん」
「本をよく読む人で」
「うん」
「背が高くて」
「うん」
「黒のG-SHOCKつけてて」
「うん」
「ここに、涙ぼくろがある」
泉は、右手の人差し指で、右の目元を示した。
「わあー、最高じゃんその人」
「さ、最高なの?」
優子が「最高」と評価する基準が、泉には理解できなかった。
「最高だよ。本読む男子って、かっこいいじゃん」
「あ、そっちね」
「いっちゃんも読書家だし、気が合うんじゃない?」
「私は読書家ってほどではないけど、三木くんは、結構詳しい」
「本の貸し借りとか、いっぱいできるね」
「うん、今、借りてる」
泉は、チェック柄のカバーをつけた、文庫本を、スクールバッグから取り出した。三木が貸してくれた推理小説を、少しずつ読み進めていたのだ。
「はいはい、おめでとう」
優子は、高貴なマダムのように、しっとりとした拍手をした。
「待って、まだ本の貸し借りくらいだよ」
「2人で遊んだことはないの?」
「ない。ないない」
「電話したりとか」
「電話もない。メールは、たまにする」
電話こそしたことがなかったが、メールのやり取りは、時々交わす。「対岸の彼女」の感想も、メールで伝えた。ここ最近で読んだ小説の中でも、特に印象深かったため、長文になってしまい、オタクっぽいかな、と泉は送信後、少し後悔した。しかし、三木は、同じ熱量で返信をしてくれて、泉はそれが嬉しかった。同じものを、同じように楽しめる男の子が、貴重だったし、それが三木であることが、嬉しい。
〈若いが故の特権ってあるけど、若い時は、大事なものしか大事じゃなくて、周りが見えていなくて、危なっかしいんだな、と考えさせられる〉
返信の一部に、こう記されていた。
自分たちだって、まだ高校生という十分若者なのに、随分大人っぽい感想を持つんだな、と泉は思った。
若い時は、大事なものしか、大事じゃない。
社会に出るようになれば、責任感や自制心が生まれ、勢いだけで突っ走ることは少なくなるのだろう。それが、できてしまうのが、10代。
私にとって、大事なものってなんだろう。彼にとって、大事なものって、なんだろう。
「順調じゃん」
優子が再びマダムの拍手をするので、「やめてよー、どこが順調なの」と泉は顔を覆った。
「三木くんは、みんなに優しいから」
「でも、クラスの女子全員に、そう接しているわけではないんじゃない?」
「そうかなあ」
「そうだよ。いっちゃん、自信持って」
優子は、泉の肩を叩いた。
昔、似たようなことがあったな、と泉は思い出した。小学5年生の頃、冬吾との仲を紗弥子から疑われ、図書室で優子から「気にしないで冬吾と話してもいいと思う」と言われたこと。
別に、似てないか、と、脳内の記憶をかき消した。
衣替えをすると同時に、校内には、夏を待ち侘びているカップルが続々と誕生してきた。
中学の時と違うのは、彼らの堂々としたオーラだ。登下校を共にしたり、放課後、教室で話し込んだり。手を繋いで下校する強者もいた。まるで、中学の頃の、杏奈と宏樹のようであった。
杏奈と宏樹は、校内では有名なカップルだったが、中学卒業前に別れてしまった。宏樹は県で一番の進学校、杏奈は私立の女子校へ進学した。杏奈と、見覚えのない男子高校生が、盛岡駅内で腕を組んで歩いていたのを、以前、泉は見かけた。膝より短いチェック柄のスカートに、赤のリボンの制服が、杏奈にとても似合っていた。
一方で、泉と三木との関係は、あまり変化がなかった。挨拶や、メールでのやり取りは変わらず行う。2人で映画を観たり、商業施設のフードコートで、おでこをくっつけながら話したりは、しない。
夏休みが、あと数日で始まろうとしている。既に、夏休みの課題は配られており、中学の頃とは比にならないくらいの量に、泉は圧倒されていた。
「先生たちも、もっと考えて欲しいよね」
放課後、自動販売機前のベンチで、炭酸飲料を飲みながら、泉と同じクラスの友人である千佳が、そうぼやく。
「大量に課題出したところで、キャパオーバーになって、結局写して終わりじゃん」
千佳の意見は、一理ある。納得してはいけないのだが、それくらいの膨大な量の課題が、各教科から出されているのだ。
課題の答えを写そうとしている千佳だが、彼女は定期テストで、学年で10番目好成績だった。不真面目なフリをして、陰での努力を惜しまないタイプなのだ。
泉は、高校に入学し、学年の半分より下の順位まで下がってしまった。進学校とはこういうところだ、と覚悟はしていたものの、周りについていくのに必死であった。
しかし、夏は楽しみたい、と思っていた。
「あーヤダヤダ。夏休みなのに、勉強に殺される。どっかの、誰かさんは違うんだろうけど」
千佳は、隣に座っている、泉の顔をチラッと見た。
「わ、私?」
「三木くんと勉強会するんでしょ」
「しないしない」
「えー、夏休みなのに、1回も会わないの?」
千佳には、三木への想いを既に打ち明けている。時折、このように冷やかしては、泉のリアクションを楽しんでいるが、応援してくれている存在の1人だった。
「うん、特に、約束はしてない」
泉は、肩を竦めながら、ぶどうこんにゃくを口に入れた。ゼリー状のぶどうジュースが、喉をするんと流れていく。
「さんさ踊りの日に、付き合っちゃうとか」
千佳の提案に、泉は盛大に咽せた。
さんさ踊りパレードは、毎年8月1日から4日まで開催され、盛岡を代表する夏祭りの一つである。踊り、太鼓、笛部隊が盛岡市中央通を練り歩き、大学のサークルや県内の企業など、数々の団体が参加する。この4日間は、会場付近に多くの屋台が出店され、盛岡の中でも特別大きな祭りとして、毎年多くの人々で賑わうのだ。校内のカップルも、こぞって集まるだろう。
泉は、家族と訪れたことはあったが、昔の話である。そして、千佳は、そんな夏の一大イベントに、三木と参加したらいい、と言ってきたのだ。
もし、そうなったらいいな、とほのかに期待していたが、現実味を帯びるとなると、話が変わってくる。心構えができていないのだ。
「えー、ちーちゃん、本気で言ってる?」
「私は、いつだって本気だよ。あ、噂をすれば」
噂をすれば、三木がこちらへ向かってきた。
千佳は、あとは頑張って、じゃあね、と言い残し、下駄箱の方向へ行ってしまった。
「あれ、邪魔しちゃった?」
千佳とすれ違うように現れた三木は、そう問いながら、自動販売機に小銭を滑り込ませる。
「あ、いや、大丈夫」
泉は硬直しながら答える。千佳との会話のせいで、上手く目が合わせられない。
「なら、いいんだけど」
三木が手にしている紙パックは、ぶどうこんにゃくだ。
「それ、この前、間違って買ったって」
泉が指摘すると、三木は手にしているぶどうこんにゃくをまじまじと見つめ、頭を掻いた。
「この前はー、その時の気分じゃなかったの」
窓から差し込む夕日が、三木を包み込む。
三木がかけてくれているこの言葉は、自分だけに、向けられている。
このことが、とても不思議に思えた。
ぶどうこんにゃくを片手に「三浦もこれ、ハマってるの?」と笑いかける三木は、やはりいつもの三木だ。
彼と、もし、一緒に、夏祭りに行ったら。隣で、さんさ踊りを見たら。
心臓は、持つだろうか。
泉は、テニス部の割には白い肌や、真っ白なシャツを眺めながら、手に汗がじんわり広がるのを感じた。
「三浦は、夏休みどっか行くの?」
三木は、ごく自然に、泉の隣に腰掛けた。
「うん、あったり、なかったり」
「なんだそれ」
泉は、千佳と優子、それぞれと、夏休み期間中に遊ぶ約束をしていた。
「三木くんは?」
「俺も、あったり、なかったり」
「なんだそれ」
三木の真似をして言うと、三木は静かに笑った。
「まあ、部活があったり、なかったりで、なんやかんや忙しくはなると思う」
「そっか、夏休み中も部活あるんだね」
さんさ踊りに行くどころじゃないかもな、と泉は心の中で呟いた。
「何、そんな寂しそうな顔して」
「待って、してない、絶対してない」
「冗談だよ。そんなに焦んなくても」
三木は真面目な人柄であるため、このように冷やかすことは珍しかった。しかも、図星だし。自分の考えていることなんて、実は、お見通しなのかもしれない。
お見通しなら、口に出したほうが、マシかもしれない。
「さんさ踊り、行くの?」
泉は、心臓の高鳴りを懸命に堪えながら、訊ねた。
「あー、4日間だよね」
「うん」
「4日間、全部部活なんだよね」
「ぜ、ぜんぶ」
「うん」
沈黙が流れた。これは、誘ったとしても、断られてしまう可能性の方が高いのではないか。
沈黙を破るように、「でも」と三木は付け加えた。
「部活は、午前まで」
そんなこと聞いてないか、と三木はぶどうこんにゃくを啜った。
「午前までってことは、午後からは、時間あるの?」
「うん、一応」
探り探りで、遠慮がちな会話が続く。
―よかったら、一緒に行きませんか。
その一言が、喉の奥でつっかえている。断られることに、怯えているのか。そうではないと思う。次に進むということが、怖い。未知の世界だから、怖い。
「三浦は、行くの?さんさ」
「うーん」
「うーんって何」
苦笑する三木の隣で、空になった紙パックを、押し潰すことしかできないでいる。
「行く?一緒に」
泉にだけ向けられていた言葉が、その空間に浮かんでいた。泉だけが、その言葉を聞いていた。