この夏ずっと考えていた歌のこと

コロッケを温めて寝る わたしって何しに日本に来たんだろう/岩倉曰

Xでこの歌がタイムラインに表示されて、ブックマークしたのが今年の6月。
それ以来、ことあるごとにこの歌の意味をずっと考えていたのだが、そうこうしているうちに、夏が終わってしまった。

「コロッケを温めて寝る」が気になって仕方がない。
一度温度が下がってしまったコロッケを美味しく食べるために、電子レンジで温める光景が浮かぶ。
コロッケを温めたあとは、そのあとすぐに食べるのが筋だが、主体は寝てしまう。
後半のやりきれない独白と合わせて読むと、あまりにも疲れてしまって温めたことを忘れて寝てしまった様子が浮かぶ。
しかし、その表現としては「コロッケを温めて『寝てしまった』」が散文としては適切だ。
「温めて寝る」は、主体が意図して、「温める」「寝る」という行動を選択しているように読める。
しかし、そこにこの歌のすごみがあって、この「寝る」はフラットに主体の動作を記述しただけなのだろう。
異様な行動が淡々と記述されることで、私たちは歌の世界に迷い込む。

そして、この歌の主体は、「わたし」と一人称を語る。
「日本に来た」とあるので、素直に読めば日本以外で生まれた外国人留学生や外国人労働者が浮かぶ。
過酷な環境で働く外国人が、疲れ果てて、コロッケを温めた途中で寝てしまって、自分の境遇に絶望している歌と読むのが素直に思う。

一方、もう一歩進んだメタファーとしても読める。
「温めて寝る」が意図のない行動の記述だとすれば、「日本に来た」も意図のない行動の可能性がある。
となると、外国人に限らず、「日本社会」なるものになじめない者、その者は日本にルーツがあったとしても該当しうる、が主体として浮かぶ。
「来た」が意図がないのならば、日本で生まれた者も、「日本に来た」ことに違いはない。

仮に主体が日本人だとすると、生まれながらに戸籍に入り、共同体を自動的に構成しているという事実をバックグラウンドを持っているがゆえに、その感じている疎外感の絶望は果てしなく大きい。

スーパーでコロッケを見るたびにこの歌が浮かんだ夏だった。

私も、自分が日本に何をしに来たかは、まだわかっていない。

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