うっすらとした虚無感(くろだたけし歌集『踊れ始祖鳥』書評)
うっすらとした虚無感(くろだたけし歌集『踊れ始祖鳥』書評)
歌集全体にうっすらとした虚無感が漂う。
そして、その空気感は、本書に収録された短歌が制作された二〇二〇年前後の日本社会全体の雰囲気である。
当たり前のように仮定される「日常に刺激を求めなくなる」という態度は、二〇一〇年代半ばごろからブームになった「ていねいな暮らし」の延長線上にあるが、刺激を求めなくなるのは、自由意思によるものなのか、低賃金などにより刺激を求め「られ」なくなったのか、はっきりしない。ただし、刺激の象徴が数百円で手に入れることができる「ポン酢」であることから、決して裕福ではない庶民の暮らしが浮かび上がる。また、この歌は、ポン酢が消えたことになんの感情も示されていない。どこか諦めのニュアンスがある。
著者のくろだ氏は、二〇一七年から作歌をはじめ、本書は二〇二三年に刊行されている。この間、二〇二〇年一月に日本国内で初の感染者が確認されたコロナウイルス感染症が世界的に大流行し、社会生活は一変した。当たり前だと思っていた生活様式は当たり前のものではなく、人間の命も未知のウイルスに対しては無力であることを多くの人が感じることとなった。
また、SNSの発達により、インターネットを介したコミュニケーションが高度化・複雑化する中、二〇二二年十一月に対話型人工知能ChatGPTが公開されるなど、社会の変化が加速化する中で、多くの人は変化に対応しようともがきながら、それなりに対応せざるをえない。
感染症の流行も技術進化による社会変化も、その変化は外的な要因であり、多くの人々にとって、自らの自由意思でものごとを判断することはかなり難しくなってきている。
私たちは気付かないまま、社会の歯車、それは丁寧に分析していけば、特定少数者のありあまる富の蓄積やヒエラルキーの温存につながるような部品、として暮らしている。共同体においては、真に自由な意志や行動は許されず、言いなりになったり、機械に促されたり、落とされるなあと思いながら逃げることもできない。それは、反抗したところで、高度化した社会の仕組みをなまじ知ってしまっているために、自分の行動による現状の反転は起きないことを前提に、自ら虚無的な態度を取らざるを得ないのである。そうした社会の「雰囲気」をこの歌集の歌は、飄々と表出する。
人間関係はより合理的になってきており、キャラ付けをすることにより、そのキャラらしさを求められ、それにこたえることで安定的な人間関係が築かれる。国民から徴税する国家は、市民が対抗するものではなく、お伺いを立てるものになっている。一方、市民生活において、避難所に設定されている公園に鳩がいて、その鳩が備蓄用ではないことはわかってはいながら不穏なユーモアを表出することも可能な程度には自由な国・社会で私たちは暮らしている。劇的な場面や強烈な感情が詠まれているわけではないからこそ、そこにリアリティのある時代の雰囲気と同時代を生きる私たちの心がある。
外的要因による変化へのキャッチアップでへとへとになっている私たちは、もはや存在するものをそのまま受容することにすら疲れてしまっている。存在するものが多ければ多いほど連立方程式の変数が増えてしまうことにおびえ、不在は救いとなっている。それゆえに、生活の中で思考が捨象される洗剤が泡立ちにくいことや悪天候がわかってからの青空は、その不在に気付くことが癒しとなる。また、そもそも今悩んでいることすら、いずれ消えてなくなるということは、生活における重要なカタルシスである。
二面性のある社会や矛盾している警句。特定の絶対的な価値観に対する信奉を社会全体が持てない中で、モチーフやメタファーにより社会の不気味さがあぶりだされる。
このように時代がリアルに詠まれている背景として、くろだ氏の主な短歌の発表媒体が短歌投稿サイト「うたの日」であることが考えられる。「うたの日」は、webサイト上で示されたお題に沿った短歌を投稿し、参加者同士で投票を行い、首席を決めるものである。首席を取る短歌は、うたの日に参加する者、すなわちネットリテラシーがそれなりにあり、短歌を生業とはせず、仕事や学校などの生活を送りながら短歌創作を楽しんでいる者が太宗を占める層からの支持を集めることが必要であると想定される。このため、同時代性・共感性が高いものが選ばれる傾向があり、くろだ氏の歌もそういった観点からの秀歌が多く、クスっと笑える大喜利的な歌も豊富である。次の二首は、うたの日で主席を獲得し、本書にも収められているものである。
本書は、選考者ごとの選出作品に歌集出版の賞が与えらえるナナロク社主催の第二回あたらしい歌集選考会において木下龍也氏により選出された作品をベースに編集された歌集である。本選考会は、「選考者を歌人ひとりとして、偏りのある審査をすること」が募集要項として示され、木下龍也氏、岡野大嗣氏の二名が独立して審査を行っている。木下氏は、選出理由を「僕が素直に憧れることのできる歌人を選んだ」という文章から始めている。歌壇における新人賞が権威的な立場から選考座談会による合議により選出作品が決まるのとは、対照的な選出方法である。しかしながら、それゆえに既存の歌壇における評価とは異なる選出プロセスを経て、より市民的・庶民的な感覚から、絶妙に二〇二〇年前後のリアルな時代の体温を感じることができる。
タイトルに引用されている一首は、鳥類の祖先とされ、学術的な価値が認められる始祖鳥を始祖鳥の目線で詠んでいる歌。飄々とした作風の歌は、読み込もうとすれば言外のことも含めて読み込むことができる一方、大喜利的にライトに楽しむこともできる。そして、その歌には、一貫してうっすらとした虚無感が漂う。本書の歌は、踊っている始祖鳥よろしく私たちを楽しませ、考えさせ、ときに翻弄し、融通無碍に踊り続ける。
(現代短歌2024年11月号発表第5回BR賞予選不通過作品)
(昨年の予選不通過作品はこちら)
第5回BR賞選考座談会雑感
2024年11月号の現代短歌(2024年9月16日発売)において、第5回BR賞の発表があり、野川りくさんの「ここではじまっている」(青松輝『4』書評)の受賞、佳作9篇、予選通過作品、選考座談会が公表されました。
受賞者の皆さま、おめでとうございます。
そして、私を含む皆さま、お疲れさまでした。
私は、昨年に続き、2回目の応募をしましたが、2年連続予選不通過でした。
今回は、応募49篇中予選通過は13篇ということでございます。
受賞作や佳作、選考座談会を読んで、あらためて自分自身が、短歌に向き合う深さだけでなく、書評を読む量、書く量が少ないことに気づかされました。
早速、来年の募集要項も掲載されており、来年に向けてがんばるぞという気持ちで、選考座談会からいくつか印象的な言葉を、自戒を込めて引用させていただきます。
「書評」の目的として、その書評を読んだ人が歌集を読みたいと思ってもらえるということが大事。
歌集を特徴づける論を立てて書評を書く場合、論に合う歌はついついドライブのかかった文章になってしまいがち。
歌の持つ特性を等身大でとらえて表現することが理性的。
独自性のある解釈や表現の追求が必要。
BR賞の賞は、10万円のほか、1年間の書評掲載がある。
それに見合う力があると感じさせる書評のレベルが受賞には求められる。
歌の引用は正確に。
何度も見直すこと。
第6回BR賞の締め切りは、2025年6月1日(消印有効)。
よく読み、よく書き、来年も挑みたい。