短歌五十音(す)鈴木晴香『心がめあて』
微妙な感情から逃げない短歌
『心がめあて』は、2021年に出版された鈴木晴香さんの第2歌集。
鈴木晴香さんは、1982年生まれ。2016年に第1歌集『夜にあやまってくれ』(書肆侃侃房)、2023年に木下龍也さんとの共著『荻窪メリーゴーランド』(太田出版)。塔短歌会編集委員。『西瓜』所属。
本書は、2016年以降に詠まれた短歌のうち、297首を収録。
鈴木晴香さんの歌に使われている言葉は身近なものが多く、情景も多くの人の日常にありうるようなものが多い。
しかし、その言葉のストレートさとは裏腹に、詠まれている感情は複雑で微妙なものが多い。
私たちは、複雑なものを言葉で表そうとするとき、その難解さについ音を上げてしまい、「ヤバい」「エモい」のような抽象度が高い言葉に逃げてしまいがちである。
それゆえに「世界との苦闘の跡」という言葉に象徴される鈴木晴香さんの歌の逃げなさに読者の心は揺れる。
1首目、「ロッテリア」と「九十九年の夏の新宿」という固有名詞・特定の時間により、主体にとっての思い出深い場所であることが一読してわかるとともに、読者は、それぞれにとっての「ロッテリア」「九十九年の夏の新宿」に代わる自分にとっての思い出深いものを当てはめて主体の感情と同期する。
2首目は、時が下って作品が詠まれたときの現在。技術や思想が進展した現代において存在する旧態依然としたものが不気味にあぶりだされている。「作らせている」には、人間を責めるようなニュアンスにも、ロジカルではないものに固執する人間の姿をシニカルにとらえるニュアンスにも読める。そして、この歌も、読者それぞれの「蜂」と「蜂蜜」が浮かぶだろう。
固有名詞に意味の深さがあり、読者それぞれにとって代替可能なものであるがゆえに、感情が同期される。
本書では、恋愛に関する歌も多く収録されているが、その歌たちも一筋縄にはいかない。
1首目、「奪うほどではない」には、恋人のいる人を奪うようなイメージが湧く。「麻酔の効いているような風」には、どこか実感のないふわふわした感覚が重なり、言い切りの強い言葉に対して、身体が伴っていないよう。
2首目、「抵当」と「永遠の恋」は遠い。しかし、「抵当」という目に見えないが、信用により成り立っているものの不安定さが際立つ。「など」という具体性のない言葉も危うい。
3首目、「ふたりきり」という恋の予感を初句で見せつつ、下の句の冷静さがとてもリアル。電車が何線か聞くということは、いくつか選択肢があるターミナル駅で、たとえ同じ線に乗るとしても、どこか都会的なドライな感覚が浮かぶ。
1首目、「冷たさ」は、触らないと正確にはわからないもの。また、冷たさそのものは可視化されるものではない。「触れているのではなく」と詠まれることで、鎖との距離を意図的に取っていることが明らかにされ、空間全体の冷たさまで惹起される。
2首目、進化系クリームパンの存在をコミカルに歌っているという楽しい読みをしてもいいし、「メロンパン」という俗っぽいモチーフと「概念の初期化」という固い言葉がぶつけられていることで、アンコンシャスバイアスの問題を取り扱っているようにも読める。
確かに発生していることだが、その理由や現象そのものを説明しきることが難しい場面はよくある。
1首目、消毒液を手に塗り込んでいき、消毒液が消えていく。しかし、正確には消えたわけではなく、手になじんで見えなくなっているだけである。しかし、どのようになじんだのか、私たちの目で確認することはもうできない。
2首目、4句目までの当たり前の情景から、結句で一気に飛躍する。読点でつながれた前後には、論理的な接続を見るのが自然であり、「詩」が人々の生活の営みの延長線上にあることが示唆されている。
歌集のタイトル「心がめあて」が題された一連。
異性との恋愛関係や婚姻関係を望まず、単に性欲のはけ口として異性と性的な関係を持とうとする「体目当て」という言葉をフリにして、そのような誠実さや対象異性の自己決定権を軽んじるような感覚をそもそも人間が持ってしまう業そのものへの鋭いまなざしがある。
しかし、その歌たちは、いわゆる社会詠的に体制を告発するというよりは、やや個人的な感覚に依拠しているような感じを受け、それが短歌としての深い共感につながっているように感じた。
無論、個々の不当事案が積み重なって社会になるわけであって、これらの歌が社会的な意味を持たないとは全く思わない。
一方、読者それぞれが蓋をしているそれぞれの人生で起きた微妙な事案(とりわけ恋愛や性愛に関して、被害者性を持つ場合、加害者性を持つ場合、それぞれある)のセンシティブな記憶にこうした歌は容易にアクセスし、読者の心を揺さぶる。
1首目、「綿菓子を舌で殺してきた」ことは何ら問題のない行為である。しかし、「殺(す)」という言葉で食べることを表されると不穏さが現れる。となれば、犯罪そのものには当たらないものの、モラルを問われるようなことの象徴のようでもある。履歴書に書かなくていいけど、伝えておいた方がいいことを隠しているような感覚にちょっとした罪悪感・したたかさを感じる。
2首目、鹿自身に主体的な善悪の判断はない、ということを前提とすれば、鹿の行為の善悪は単にそれを見た人間が勝手にラベリングしているだけである。鹿の鳴き声の動画は、癒し系の動画だろう。動画に映された鹿は、知らないところで好感度を上げていき、一方で、冷笑的な者たちからは、その行為と結論のアンバランスさから、偽善者というレッテルを貼られる。
タイトルに用意された周到なカタルシス
筆者は、歌集を読む前、この歌集のタイトル「心がめあて」について、「めあて」というひらがな表記もあって、「目標」という意味の「めあて」だと思っていた。
そうなると「心がめあて」は、自分の心を大事にしようというような意味合いかなあと軽く考えつつ、表紙に描かれた女性は、画風もあってどこか不穏で、どんな歌集なのかと思いながら読み始めた。
しかし、先に紹介したとおり、「心がめあて」は、
からの引用で、「体目当て」という言葉への対比として使われている言葉。
この歌は、最後から3番目の連作に配置されており、これを読んだときにタイトルの意味がはっきりと立ち上がり、鳥肌が立った。
文学作品に限らず、映画や演劇などで名作と呼ばれるものは、カタルシス(感情を溜めていって、クライマックスでその感情が浄化される)が用意されている。
この歌集でも、「めあて」という表記で認知のミスリードを誘いつつ、微妙な感情から逃げない短歌に心が何度も動かされた状態で、タイトルの意味がはっきりする歌があることで、大きなカタルシスを生み出している。
1首1首も感情が揺り動かされる作品がたくさんあり、さらに1冊の歌集・文学作品としても秀逸。
まだ読んでいない方は、是非お手にとって読んでいただきたいです!
次回予告
「短歌五十音」では、初夏みどり、桜庭紀子、ぽっぷこーんじぇる、中森温泉の4人のメンバーが週替りで、五十音順に一人の歌人、一冊の歌集を紹介しています。
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お読みいただきありがとうございました。
本稿が、みなさまと歌人の出会いの場になれば嬉しいです。
次回は初夏みどりさんが砂子屋書房現代短歌文庫『関谷啓子歌集』を紹介します。
お楽しみに!
短歌五十音メンバー
初夏みどり
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