
【インタビュー】『シングルコレクション』を通して見る、友部正人の創作世界と多作を極めた90年代
インタビュー・テキスト/峯大貴 写真/谷川慶典
1972年にURCレコードから発表した『大阪へやって来た』でデビューして以降、稀代の詩人として後世に影響を与え続けてきたシンガーソングライターの友部正人。この度、ミディ在籍時にリリースしたシングル曲を中心とする『シングルコレクション』がリリースされた。
70年代のフォーク・シーンの中で登場し、2ndアルバム『にんじん』(1973年)に代表される初期作品に目を向けられがちだが、本作に収録されている楽曲が発表されたのは1991年~95年、友部は40代前半にあたる。真島昌利、たま、BO GUMBOS、THE BOOM、The Grooversなど彼から影響を受けた若手ミュージシャンが続々と登場し、ソングライティングにおいても多作かつ、屈指のポップネスを発揮していた、いわば第二次全盛期と言っていい時代だろう。
その一方で74歳になった現在も創作ペースは全く衰えず、昨年はオリジナルアルバム『銀座線を探して』を発表したばかり。そんな友部にWebで読める記事としては貴重なインタビューが実現。『シングルコレクション』にまつわる話を訊いた。

最も多作で最も盛んにコラボしていた、90年代の友部正人
――今回の『シングルコレクション』には90年代前半に発表されたシングル5作品の収録曲が網羅されています。当時、ご自身にとってどんな時期でしたか?
「1988年から『待ちあわせコンサート』っていうイベントをやるようになって、色んな人と演奏する機会が増えていた時期でした。1回目がたまで、2回目が井上陽水。その後はマーシー(真島昌利)、矢野誠さん、遠藤ミチロウ、CHAKAさんがいたPSY’S、MOJO CLUB、チャボ(仲井戸麗市)、矢野顕子さん、宮沢和史くん、PANTA、どんと(BO GUMBOS)、おおたか静流さん、山口洋(HEATWAVE)……。毎回とてもスリリングでしたよ。ただ時間を分け合い交代で演奏するだけじゃなくて、一緒に曲目を選んだり、曲を作ったり」
――この時期はシングルに加えて、オリジナルアルバムは『ライオンのいる場所』(1991年)、『遠い国の日時計』(1992年)、『奇跡の果実』(1994年)。また、たまとの『けらいのひとりもいない王様』(1992年)、矢野誠さんとの『雲のタクシー』(1994年)とコラボ作品も発表していて、かなり多作な時期でした。
「確かに80年代よりも忙しかった気はします。それまで徳間ジャパンにいたんですけど、ミディに移籍したからでしょうか」
――また「すばらしいさよなら」や「朝は詩人」を筆頭に友部さんのキャリアの中でも、メロディアスな曲が多い印象です」
「70~80年代とは違って、この頃はタイアップとか依頼を受けて作ることも多かった。他者を意識すると曲も歌詞も変わってくるのが面白かったですね。あと「すばらしいさよなら」は宮沢くんが作曲ですし、『待ちあわせコンサート』をきっかけに他の人との共作が増えたことも大きいです」

ーー「すばらしいさよなら」にはTHE BOOM、「朝は詩人」「ゆうれいなんていかしてる」はBO GUMBOS、「Don't Think Twice, It's Alright」はチャボさん、「グッドモーニングブルース」はMOJO CLUBとリクオさんが演奏に参加しています。友部さんのコラボレーションの歴史が追えるという意味合いでは、同じミディ時代のベスト・アルバム『ミディの時代』(2015年)とも違う意味合いを持つ編集作品となりました。
「確かにそうですね。まだ若いうちに色々やっててよかったなと、改めて思いました」
――今回、全曲リマスタリングされましたが、ご自身で聴いてみてどのような印象を持ちましたか?
「風間萌さんという方にリマスターをしてもらったんですが、すごく新鮮に聴けました。やっぱり今っぽい音色ってあるんですね。元の音に忠実なパターンと、現代的な音作りをしてもらったパターンを用意してくれて、全ての曲を比べたんですけど、ほとんどの曲で今っぽくしてもらった方がいい曲に聴こえました。「グッドモーニングブルース」と「LOVE ME TENDER」だけは、深いリバーブ感とか当時の良さが減っちゃう気がしたので、忠実な方にしています」
――今回「グッドモーニングブルース」の歌詞の内容によって、販売元が変わり、発売日も後ろ倒しになったそうですね。かつて「びっこのポーの最後」の歌詞が引っかかり、『どうして旅に出なかったんだ』(1976年)が回収になったこともありましたが、未だに歌詞によって自主規制が働くことに驚きました。
「当時この曲は『ライオンのいる場所』(1991年)に入れる予定だったんですが、歌詞が引っかかって入れられずに自主制作のシングルで出しました。今回も歌詞に「ヒットラー」という言葉が入っているのが問題視されたみたいです。それ以外にも、規制が入ったことは何度かあって『夢がかなう10月』(1996年)ではデイヴ・ヴァン・ロンクと一緒に「CANDY MAN」を歌っているんですけど、最初デイヴから提案された曲は「Cocaine Blues」だったんです。それをレコード会社に相談したら、日本では絶対に出せないって。ボブ・ディランだって、来日したときにコンサートで歌っている曲なのに」

――度々自分の表現に規制がかかることに対して、どのように感じてきましたか?
「決して誰かを攻撃していたり、悪意のある表現ではないのに、こういうことがあると日本で生まれる歌は、現実からどんどん離れてしまう心地がします。トム・ジョーンズに「Green, Green Grass of Home」という歌があるんですけど、故郷の山や花を思い出して幸せな気分になっているところからパッと目が覚めると、四方が壁で実際は監獄にいる死刑囚が見ていた、夢の中の風景だった。すごく生々しくて、リアルを映した歌なんです。これがイギリスやアメリカではちゃんとヒットしたし、受け入れられる土壌がある。日本ではそういう表現に慣れていないのか、当時森山良子さんが歌っていましたけど、その部分はカットされてましたね」
クリエイティビティを支えた、ミディという環境
――友部さんがミディからリリースしたのは1989年の『夕日は昇る』のタイミングからです。移籍した経緯はなんでしたか?
「きっかけは確か、どんべい(永田純)に誘ってもらったのかな。徳間ジャパン時代に作った『ポカラ』(1983年)と『カンテ・グランデ』(1984年)は彼がベースを弾いていて。あと矢野顕子さんのマネージャーもやっていたでしょ。矢野さんがミディ所属だったので、いい感じですよってすすめてもらったんだと思う」

――URCからデビューして、CBSソニー、徳間ジャパンと渡り歩いてきた中で、ミディにはどういう印象をお持ちですか?
「あんまりレコード会社って感じしなくて、家族みたい。だって大藏博さん(ミディ創業者)が、まだベルウッドの三浦光紀さんの下で働いていた70年代半ばごろからの友達ですから。当時は「博」じゃなくて「火呂死」って名乗っていて、おとなしくて真面目な人なんだけど、どこかぶっ飛んでいるようにも見えた。担当してくれていた時も、例えば『奇跡の果実』の制作中に歌詞を変えたら「前の方が良かった」とかしっかり内容にも踏み込んで意見してくれたり、ライブの現場にもちゃんと来てくれる。アーティストへの愛が強い人でしたね」
――その後『歯車とスモークド・サーモン』(2008年)まで約20年の長きに渡ってミディに所属されましたが、そういう大藏さんの人柄や熱意による要因が大きかったんですね。
「はい。今より音楽が売れていたという時代背景もありますが、こんなにシングルを出してくれたのも、『no media』(2000年)なんてポエトリー・リーディングのアルバムを作るのをOKしてくれたのも大藏さんのおかげ。本当にしたいことを全部やらせてもらいました」

――ミディ時代の作品で一番印象に残っているのはどれでしょうか?
「やっぱり 『奇跡の果実』(1994年)かな。コロムビア・スタジオを1ヶ月押さえてもらって、色んなゲストミュージシャンや、ブラスセクションにストリングスの人も呼んで、自分の作品の中でも一番お金がかかっている。今聴いても豊かな音だなと思います」
生きていれば曲のテーマがなくなることはない
――この『シングルコレクション』の最後には友部さんがデビューした1972年に、URCレコードから発表されたシングルから「もう春だね」と「乾杯」も収録されています。ライブではごく初期の曲を今でもよく演奏されていますが、過去の曲をどんな気持ちで歌っていますか?
「できるだけ当時の情景や気持ちのまま歌う方がいいと思っています。どの曲も作っているときの感覚は覚えているので、現在の自分と結びつける感覚はあんまりないですね」

ーー曲作りにおいては、URC時代から比べると曲の作り方は変わっていきましたか?
「最初の頃はどうだったかなぁ……。でも僕の場合は何か溜まってきた気持ちを吐き出す場所が歌だったんです。なにか感じたことに対して形にしておかないと、悔いが残りそうだから詞を書く。それを今も変わらず続けているという感覚です。ただ前にも似たような曲を作ったなってことは避けるし、今までやってこなかったことをやりたいなとはずっと思っています」
――近年の作品で言えば、『あの橋を渡る』(2020年)は東北で生まれた曲を東北でレコーディング、最新作『銀座線を探して』(2024年)は吉祥寺STAR PINE'S CAFEでのライブレコ―ディングと、ある土地や場所から得られた刺激をアルバムに落とし込んでいるように思います。今後考えているテーマやコンセプトはありますか?
「毎回あんまりアルバムにコンセプトみたいなものはないんですよ。
一つ一つ曲を作っていって、それがたまったらアルバムにしようかな、と思うだけです。
その後の方針はプロデューサーが考えてくれるので、相談しながら作っています」

――今までやったことを避けながら作り続けると、書きたいことがなくなってはきませんか?同世代の方々の中には寡作になる方も多い中で、友部さんとあがた森魚さんは、今でも数年に1枚、必ず新作アルバムを出していて、驚異的なことだと思います。
「それがやっぱり、生きているうちはなくならないんですよ。もちろん若い頃より試行錯誤する時間は長くなりましたが。だから今も新しい歌を作って、ライブで歌ってるときが一番面白い。古い歌を歌う時も、一人で歌うよりかはバンドでやったり、何かしら新しい形でやりたいと思っています」

RELEASE INFORMATION

90年代にリリースされた、現在廃盤となっているシングルを中心とした友部正人初のシングル・コンピレーション・アルバム。
今年デビュー52年、今なお森山直太朗はじめ多くのミュージシャンに影響を与え続けるシンガーソングライター、友部正人がミディ在籍時にリリースしたシングルを全て網羅したシングル・コンピレーション。さらに1991年に自主制作でリリースされた「グッドモーニングブルース」と1972年にURCレコードよりリリースされた「もう春だね/乾杯」も追加収録。
JRグループのCM曲としてオンエアされたエルビス・プレスリー「LOVE ME TENDER」の日本語カバーや、宮沢和史が作曲、THE BOOMが演奏を務めた「すばらしいさよなら」、矢野誠との共作「おしゃれな服」「花」、ボ・ガンボスが参加した「朝は詩人」「ゆうれいなんていかしてる」など話題となった楽曲をはじめ、アルバムとは異なるシングル・バージョンの楽曲も多数収録。全曲2025年最新リマスタリング。マスタリングエンジニアは風間萌 (studio Chatri)
《収録曲》
1. すばらしいさよなら
2. 銀の汽笛
3. 朝は詩人
4. 私の踊り子
5. 夜は言葉
6. 夜よ、明けるな(シングル・バージョン)
7. ゆうれいなんていかしてる
8. ラブ・ミー・テンダー
9. ドント・シンク・トゥワイス・イッツ・オールライト
10. ジャージーガール
11. おしゃれな服(シングルバージョン)
12. 花(シングルバージョン)
13. グッドモーニングブルース
14. もう春だね
15. 乾杯
レーベル:MIDI INC.
品番:CXCA-1325
JAN:4522081001678
フォーマット:CD
発売日:2025/1/15
友部正人(ともべ・まさと)
1972年、シングル「一本道」でデビュー。現在に至るまでオリジナルアルバムやライブアルバム、他アーティストとの共作や詩の朗読アルバムなど数多くの作品を発表している。また詩人/作家としても1977年に初の詩集『おっとせいは中央線にのって』を発表以来、多数の著書を刊行している。
峯大貴(みね・だいき)
1991年生まれ。大阪市出身、東京高円寺→世田谷線在住。音楽ライターとしてミュージック・マガジンやMikiki、BRUTUSなどに寄稿しながら、ANTENNAで副編集長を務める。
X(旧Twitter):https://x.com/mine_cism
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ANTENNA:https://antenna-mag.com/
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