猫の魔力〜『猫と庄造と二人のおんな』書評〜

猫には不思議な魅力がある。美しいさらさらの毛並み、吸い込まれてしまうような大きな丸い瞳、子どものころに夢中になったスライムのような、柔軟でつかみどころのない体躯、追いかければ逃げ、放っておくと寄って来る気まぐれな気性、具体的な要素を挙げればキリがないが、そんな彼らの魅力を前に人類は皆、無力である。『吾輩は猫である』が大ヒットしたのも、漱石の文才に因るものであるのはもちろんそうなのだが、その主人公が猫であったことも一因であろう。『吾輩は犬である』とか『吾輩は鳥である』とかであったらあれほど売れていなかったのではなかろうか。


かくいう私も大の猫好きであり、犬派か猫派かの論争が始まれば、犬派の面々にどうにか彼らの魅力を理解させ、あわよくば猫の沼に落とすべく、持ちうる語彙をすべて使い、伊集院光も腰を抜かすほどの勢いで舌を回転させている。


今回取り上げる『猫と庄造と二人のおんな』は、そんな猫の魅力に取りつかれ、振り回される男女の物語である。


庄造の妻、福子のもとに、庄造の前妻、品子から「飼い猫、リリーを譲ってほしい」という手紙が届くところから物語が始まる。十年連れ添った愛猫を手放したくない庄造、妻である自身よりも庄造からの愛情を受けているリリーに嫉妬する福子、もう一度庄造のもとに戻ろうとする品子と、それぞれの視点から物語は描かれている。それによって、三人それぞれの心情がはっきりとわかり、その醜さ、愚かさがこの作品の面白さとなっている。


しかし、この作品の最もすばらしいのは、リリーという猫が何もしない、常に中立の立場にいる所である。もちろん、リリーはこの作品の主人公であり、彼女を中心に物語が展開していくのであるが、彼女が能動的に登場人物たちに干渉することはまずない。庄造に愛され、福子に嫉妬され、品子に復縁のための道具として見られるだけの純粋な存在なのである。その純粋さが人間たちの思惑の醜さを引き立てる形になっており、作品の魅力をより一層味わえるようになっている。


そしてさらに面白いのが、先程、品子がリリーを復縁のための道具として見ていると書いたが、作品の後半で、その品子がリリーの魅力に取りつかれてしまうのである。この過程が何度読んでも面白い。ずぶずぶと沼にはまっていくように引き込まれていく。庄造と暮らしていた時はリリーに嫉妬し、憎らしく思っていたのに、いざ自分の手元に置いてみると可愛くて仕方がなくなってしまうのである。人を虜にしてしまう魔法使いのような猫の魅力が感じられる一幕である。


この作品は、ただの愛憎劇ではなく、猫の魅力を描いた作品でもあると私は感じた。猫好きの方にはぜひ読んでいただきたい。

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