坐禅に生きる
そこに坐するとき
わたしは木になろうとした
しかしどこからか火が起きて
心身ともに燃え尽きてしまった
次に坐するとき
わたしは炎になろうとした
しかし突然、豪雨が始まって
心身ともに消えてしまった
次に坐するとき
わたしは水になろうとした
しかし強い日照りがやってきて
心身ともに蒸発してしまった
とうとうわたしは坐することを
諦めた、その瞬間
隣から声が聞こえてきた
「20年坐していたら、わたしは何かになろうとすることすら忘れてしまいました」
ようやくわたしは気付かされた
坐禅とは
寺にて坐することだけでなく
ただ人生を歩み、生きて、死んでゆく
その瞬間、瞬間に
坐するのだということを
優しい声に敬礼し
わたしは何とか家路まで
坐しながら、帰ってゆくのであった
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