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創作|悪魔になった日


 どこの誰とも知れない女を、初めて押し倒した。

 途端、上空の満月を穿つような悲鳴がこだまし、我に返る。
 今しがた強烈に魅かれた血の香りはもうしない。手のひらに触れる湿った土と雨の匂いがかき消したのか。

 肩を震わす自分の呼吸がいやに荒い。たった今、この女に何をしようとしていたのかを思い出す。

 殺したいわけでもなかった。
 犯したいわけでもなかった。
 ただ血の香りがしただけだ。

 組み敷かれた女の瞳に映った自分は彼女と同じく、ヒトの姿をしているだろうか。
 それを確かめることすら憚られ、動揺にしがみつかれた身体を匿うように黙ってその場を立ち去った。


 以降、自分の舌を噛み潰し、腕に食らいつくほどの飢餓が数年続く。

「吸血鬼の飢えは己の血肉じゃ満たされない。1度試せば分かったはずだ。それとも何だ、死にたいがためにやったのか」

 そう言いながら、男はグラスに悍ましく赤い液を注いだ。
「お前を探していた」と連れ帰られた時点で、彼も人間ではないのだと理解していた。

「なぜ人を襲わない」

 血は嫌いか、と聞かないところが妙に聡い。

 答えないままひと口ばかりを喉に流せば、久しく感じる命の味が、身体を死から遠ざける。
 それが悲しく思えたおかげで、ようやく自分が死にたがっているのだと分かった。


 死に方を探すために生き惑う。

 不死の寿命を持て余す日々は、空から墜落してきた “何か” を「流れ星だ」と見紛う晩まで、永く続いた。



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