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WEBライティングの「書く」を学んで思うこと

 わたしにとっての文章は自己表現の手段であった。自分の中の深いところを可視化する。noteというプラットフォームで何かを綴り続ける時点で、そういう人間なんだといえるのかもしれない。

 だけどWEBライティングで求められる「文章」は、どう考えてもそれとは全く別物だ。「こういう記事を書いてください」という依頼は「これについてあなたの考えを書いてください」なんて言葉を意味しない。
 WEBライティングはネットでググって出てくるような記事を執筆する仕事。1つの事柄に関する情報をまとめて分かりやすくする。「〇〇するにはどうしたら良い?必要なものと手順を徹底解説!」みたいなサイトの中身を書いていく。

 飾りの比喩なんていらない。美的な言葉選びもいらない。わたし自身の自己表現など、不要どころかご法度である。
 良かれと思って体験談を添えたくなっても、あくまでただの「情報」であるべき文章だ。それが突然「私の場合は――」なんて公私を混同させたら、読んでる側はちょっと眉根を寄せたくなる。そういう話はそのための場所でするべきだ。


「好き」を仕事にすることについて、懸念がなかったわけではない。実際各所でその危険性は語られる。
 わたしもまた「上手くいかなかった場合は嫌いになるんじゃないだろうか」と心配した。大好きな文章が「書かなきゃいけないもの」になり下がる可能性を肌で感じた。

 だけどWEBライティングの「書く」と本来わたしが好きとしていた「書く」の間の大きな違いに、今は案外救われているようにも思う。2種類の「書く」を仕事と趣味とで、隔てて考えられるから。

 WEBライティングで求められる文章は、わたしの「好き」な文章とは遥かに違うものである。だけどわたしはたとえどんな文体であれ、外の情報をまとめただけのものであれ、言葉をこねくり回して「書く」こと、それ自体が好きなのだ。
 伝えたいことが伝わるように、語彙や表現を熟考して選び抜く。その過程はnoteで綴るエッセイともそう変わらない。


 この文章はまだ自分でもぼやけたまんまで書いていて、それこそ伝えたいことが伝わっているか、少し微妙な手応えである。「読んでもらう」を最優先に考えるべき文章だったら、まず不合格なものだろう。

 結局WEBライティングの「書く」を学んでわたしは何を思うのか。強引なまとめ方にはなるが、仕事と趣味とで異なる「書く」を手にできることに安堵する。少なくとも文章を嫌いになりはしないだろう、と安堵する。

 書きたくて書くだけのnoteは欲の昇華に近いものだが、ただ1人でも読んでくれるあなたがいるなら万々歳だと嬉しく思う。

 今日も読んでくれてありがとう。


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