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何かしてくれる人がいい人なのか


こんにちは。
今日は、「いい人」について考えてみました。

ここ数日ずっとモヤモヤしていることがあります。
それは、「何かしてくれることが優しさなのか」ということ。


いくら他の人がいい人だと言っても、
「この人いるとなんか調子狂う」
「会うのが億劫だ」
「こんなに色々してくれるのに、なぜか嬉しくない」
など感じることってありませんか?

人の優しさや親切って
何かすることなのでしょうか?



遠慮じゃなくて、本当にいらないんです…。



例えば、コーヒーや飲み物。
「結構です」と何度言っても出され、時間がない中で焦って飲んでも美味しくありません。

本人はもてなしたという満足あるかも知れませんが、こちらは残してしまった罪悪感でしかない。

それでも、その人のしてくれた事は親切となるのでしょうか?


また、ランチ。
気心知れた人となら楽しいのですが、気を遣ってしまう相手なら私は家で1人で食べたい。
いくらいいお値段のランチをご馳走になっても、ちっとも味なんて覚えていないし、美味しくない。


何かしてあげようと思う気持ちはありがたいのですが、こちらが何度もやんわりと断ったり、距離をとっているのに何かしようとしたり、
それでも強行突破してしようとするのは、もはや自己満では????

話を聞こうとして、心配しているという優しい仮面をかぶって、
「ただ知りたいだけ」が本心のこともあるでしょう。


そもそも信用していれば、こちらから相談や話をしているはず。

きっとそういう人は、
「いいことをしてあげる自分」が好きで、
こちらの嘘の「ありがとう」に気づいていないと思います。

そして、自分はいいことをしたと満足していると思います。
だから、自己満足ではないんだろうかと思うのです。


そういうい人は、世の中では「いい人」なのかも知れません。
でも、私は苦手ですし、いくら周りの人に「ありがたいじゃない」と言われても、付き合っていきたくないと思います。

「何かをすること=優しさ」だと思っているかも知れませんが、
「何もしてほしくない」人もいて、「何もしない優しさ」もあると思うのです。

そして、どの対応が正しいか親切、というより
結局は根本的にその人が嫌いなのか、迷惑だ、関わってほしくないと感じているから「親切」とは思えない。

そんなことを言いながら、
「あの人はいい人だから、嫌ってはいけない」
「嫌う自分は心が狭いんだ」
なんて、自己嫌悪になってしまうこともある。

だけど、そんなこと思う必要ないんです。


自己嫌悪になってしまうけれど、
私は、その「いい人」と関わらないようにしようと思います。
(そもそもそんな気持ちになる人と関わる必要ないですよね)
そして、そういう心の狭い自分も◎にしてあげる。

縁を切ることができなくても、
距離はしっかり取っていきたいと思います。

自分の心の方を大事にしてあてもいいですよね。




誰かの役に立つこと=自分の存在意義なの?



きっとそういう人は、「誰か」という個人が心配なのではなくて
「心配することがある対象」「何かすることがある対象」に興味があるのではいでしょうか。
つまり、私たちの悩みはゴシップ。

他人の不幸は蜜の味とはいいますが、きっとその相談に乗っている自分が好き。

はたまた「自分が安心するための把握」。

何かをすることで人の役に立っている感。それが自分の存在意義。

親はよく、これを子供にしてしまうし、
大人になった子供の生活や自分の家庭を持った子供にいつまでも口を出す親もいます。

生活や身辺の世話と、干渉や把握は違う。

その人のようにはなりたくない、
そんな反面教師にさせていただいて、
「何かしてあげたい星人」とは、そっとフェードアウトさせていただきたいと思います。


世の中で「いい人」と言われる人が、
みんないい人なのか
少なくとも自分にとっていい人なのか

自分の心・フィーリングに尋ねてみるのもいいかも知れません。

それが分かるのは、「自分の心」しかないと思うから。



「みんなにいい人」なんて、きっとこの世の中にはいないと思います。
いい人は、親切を受けっとった人がそう思うかどうかで、
その人の中にしか存在しないんだと思います。


だから、どんなに周りにとっていい人でも、
「私はどう感じているか」
が大事なんではないでしょうか。

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