「マジメさ」について真面目に考えてみました
ぼくの経験則ですが、先生という人たちはみんなマジメな方たちばかりです。そしてそのマジメさは、ある種の正義のようにもてはやされます。しかし、教員の働き方改革が遅々として進まない原因の一つには、その「マジメさ」があるように思うのです。そこを深堀りしていきます。
まず、マジメさには大きく2種類あります。それは「学校や子どもに対するマジメさ」と「自分に対するマジメさ」です。教員の立場から、一つずつ考えていきます。
①子どもや学校(仕事)に対するマジメさ
例えば、子どもたちのために一生懸命な先生はとてもいい先生だと言われます。もちろん、それは正しい。また、学校の中での役割(公務分掌等)をこなすために一生懸命あれやこれやと動いている先生も、仕事に対してマジメだと言えるでしょう。しかし、その一生懸命というマジメさは、果たして本当に子どもたちのためになっているのでしょうか?
働く上での基準が「子どものため」「学校のため」しかない人がいたと仮定するならば、その人は自分自身の善悪や価値観の基準を持っていない人、とも言えるかもしれません。
ぼく個人の経験を少しお話します。あるとき、職員会議の中で「お昼の休み時間に子どもたちに動画を見せて欲しい」という提案がなされました。先生方は特に反対することもなく提案が通りそうだったので、ぼくは慌てて手を挙げてこう言いました。「お昼の休み時間は職員の『休憩時間』に設定されています。つまり労働時間外なので、そこに教育活動を設定するのはおかしいのでは?」そこで先生方は「はっ」と気づいたらしく、その提案は別に日程で再検討されることになりました。
ここで言いたいのは、もし「子どものため」「学校のため」という基準しか持っていなかったら、この提案はそのまま通っていたということです。だって、その教育活動は、間違いなく子どものためであったし、学校のために必要なものだと判断されたものだったから。しかし、ぼくには法律の知識があり、かつ別基準で仕事を見るということができたので、その意見を口に出す事ができたのです。では、ぼくの持っていた別の基準とはなにか。それが「自分のため」という基準です。
②自分に対するマジメさ
ぼくは『定時退勤がちサロン』というオンラインサロンを運営し、自分自身も定時退勤を心がけるようにしています。なぜなら、それは「自分のため」です。もっというと、ぼくの優先順位としては家族の時間が一番なので、その時間を最大限に確保することがなによりも大事なことだからです。そして、そのために=定時に帰るために、仕事の在り方を見直したり、働き方に関する法律を勉強したりしていたのです。もしここで、ぼくの基準が「子どものため」「学校のため」というものしかなかったら、おそらく言われたことを素直に聞くということに終始していたでしょう。しかし、社会人の方なら全員に共感していただけると思うのですが、「ただ言われたことをやるだけ」の人材は、決して有能とは言えません。が、言われたことを一生懸命こなす人のことを、ぼくらは得てして「マジメな人」という評価をし、それが肯定的に捉えられがちなのです。このギャップが、働き方改革を遅々として遅らせる原因になっていると思うのです。
ぼくら教員は、今一度「マジメさ」というものを捉え直さなければいけないフェーズにきているように思います。「子どものため」「学校のため」という枕詞をつけて、言われたことを一生懸命やるマジメさに苦しめられている先生方は、全国にたくさんいらっしゃいます。その基準を変えていきましょう。大事なのは「自分のため」という基準で働くということ。それが、真の意味で「マジメな人」ではないでしょうか。
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