演じるべきである

埼玉北部のど田舎では非凡なガキであった。それで周りから天才だともて囃された。それがむしろ、妄想と疑いをうんだ。つまり、小学校の前半では、周りの大人は俺を煽てるだけ煽て、普通のガキがどれだけ傲慢になるのかを観察しているのだ、という妄想にかられた。だが、それは妄想に過ぎないという客観的な観察も同時に行なっていたので、なんとか正気を保っていた。

人に言うと統合失調症では?などと言われるが、統合失調症は小児において発症率が低いことは研究のとおりだし、幻覚も幻聴も自分の記憶の限りでは、起こしていない。

しかし、いま考えると、それを妄想だと片付ける本当に客観的な理由は特にない。俺の見ていた”客観的”な現実が事実と一致している証拠はないし、それが幻覚・幻聴であったことも否定できない。

今、そこのコンビニの店員に、おいお前!みんなして俺をいつも、監視(み)てるんだろ?!と詰め寄ったところで、お客様、あなたは気が変になっているのです!と言われるだけだが、彼が言っていることがごまかしであって、俺が言っていることが本当である、ということを否定することもまた不可能である。

というか、俺たち全員が、グランド・セフト・オート20あたりのプレイアブルキャラクターであって、プレイヤーの監視対象であることを否定することもできないし、もっと言えば、プレイアブルですらなく、街で不意に主人公に銃撃されているCPUキャラであることもまた否定しようがない。

もしそうならば、全ては監視されて良いように操作された出来事で、本来的には無価値であろうか?いや、そうではない。GTAリバティシティPSPのヤクザのCPUを覚えているか?二つ目の島にいて、スポーツカーに乗っており、拳銃と日本刀で武装しているCPUである。あいつらは、侍なら必ず、覚えているだろう。片言の変な日本語で話し、主人公のトニーを見つけるや切り掛かってくるキチガイのあいつらを。

あいつらはPSPのコンピュータで計算できる程に軽量でありながらも、自分のスタイルを貫いていたから、侍たちの記憶に残っているのである。操作されていても、記憶に残り、観察者に影響することはできる。

侍であるならば、一人のときも、常に侍を演じるべきである。
ダウンタウン浜田が突如あらわれ、ドッキリ大成功!結果発表〜!!と叫び出したとしても、「私も少しばかりは、その可能性を疑っておりました。それでいつ採点されても良いように、常に侍であろうとしたのです。」と言うのか、驚いてしまって、たった今パパ活女子と飲んでいた盃を床に落とすのかでは、観察者の評価も異なるはずだ。そして、その時は訪れず、ついにダウンタウン浜田が結果発表をすることがなかったとしても、侍を演じた誇りは残るのだ。

見られているということが、無意味な妄想であろうが、本当の監視であろうが、侍であれば、やることに変わりはない。常に、侍を演じるだけである。

ましてや、令和で侍をやっている変な者は、もはや封建制の主君がいないのだから、きっと、あの侍を主君として設定しているのだろう。あの侍とは、二千年前に、俺たちの罪の代わりに見事切腹を成し遂げられた、あの、侍である。

あの侍は見ている。今も、ずっと、見ている。

そこで要請されていることは、いつ浜田の結果発表が始まっても良いよう、侍を演じ抜くことだけである。


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