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魂とかについて
僕は魂と言われているものにかなり懐疑的である。
というかぶっちゃけ今のところ全く信じていない。
スピリチャル系の話の中では、魂の存在とか、魂の成長とか、まるで語る必要もないほどの前提のようであるけれども。
まず、あまりにも分かりやすすぎる。概念が。
魂が様々な現世での経験を通して、愛について学び、あるいはカルマを通じて過去のブロックを解消し、より愛に溢れる神に近づいていく?という冒険ストーリーのような?
いや決して馬鹿にしているわけではないのだけれど、生はそんなシンプルな概念に収まるようなものなのかなと。
ここに生じている身心は、私自身が意図して作ったものではなく
なぜだか自然に生じていて、そして非常に精密なシステムとして働いている未知なるものであり、日々起きてくる様々な現象、刻々の経験、湧き上がる思考、色とりどりの感情
それをじっとここで不動で見つめ、感じ続けている「私」と呼ばれる未知なる何か。
世界は美しくそして理不尽であり、精神は愛に溢れそして混乱しており、自然は豊かであり、しかし暴力的に破壊され、ある意味では天国と地獄が混然とした様相の中、すれ違う赤ん坊の澄んだ瞳に無限の受容性を感じ、すっと散りゆく落葉に静寂、人々の様々な活動、表現に心を打たれる。
ポジネガ美醜様々な印象は起こるけれども、それも含め、日々、こんなに豊かな現象世界を体験できていること、そしてそれは尽きることなくエネルギッシュに起き続けていること、またこの身心を通じて、現象との関係の中で、さらに豊かな体験が創出されていること。
まずはこの経験全体が、非常に不可思議であり、さらに予想を超える経験が次々と巡ってくるのであり、僕はこの日々の現象の変化だけでもすごい経験をさせてもらっているという感情が湧いてくる。
私がここに存在しているということは、常に中心から泉のように出でようとしているエネルギーを、この身心を通じていかに無駄なく表現できるか、また、様々に生じてくる出来事、経験というエネルギーをいかに精緻に感受できるかという「エネルギーの呼吸」のようなもの、これを最大化するための「挑戦の機会」のようにも感じられる。
かなり抽象的な表現になってしまうが、そう感じるのだからしょうがない。
要はこの豊かな生を狭い概念やストーリーに閉じ込めたくないということなんだな。