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個人的、非個人的

「この問題、この複雑な生きていることの問題を見、自分自身の思考の過程に気づき、そしてそれが実際にどこへも導かないことを明確に理解し、つまり私たちがそのことを深く理解するとき、確かに個人的でも集団的でもない英知の状態があります。そのとき社会に対する、共同体に対する、現実に対する個人の関係の問題はやむのです。なぜならそのときには英知のみがあり、それは個人的でも非個人的でもないからです。私たちの莫大な問題を解決できるのは、この英知だけであると私は感じます。それは結果ではありえません。それは私たちが意識的なレベルだけでなく、より深く、隠れた意識のレベルで、この全体の、全部の考えることの過程を理解するときにのみ生じることができるのです。」
出典:J・クリシュナムルティ. 最初で最後の自由 ( 株式会社ナチュラルスピリット)

クリシュナムルティの表現で独特な点は、「個人的」「非個人的」のどちらにもとらわれていない点だと思います。
私とあなたの関係、私と対象との関係、それが生活であり世界、というように、また、物理的な個別性も否定していません。つまり我々の日常の個人感覚そのままに語ります。決して「”私”は錯覚です」「私と対象という関係自体が錯覚です」などとは表現しません。
ときには上文のように「それは個人的でも非個人的でもないからです」というような表現も出てきます。
私がハッとしたのはこの点。
「これは凡夫に向けた表現であり、実際は彼は覚醒しているので我々とは違う非二元の世界を経験しているのだ」という「解釈」も跋扈していますが本当にそうでしょうか?

仏教の重要概念に「無我」があります。現象は本来、個別に継続するような自性、実体はない、という意味合いです。
また「非二元」界隈でも「私はいない」「すべては1つ」「個人はいない」「あなたはわたし」などとも表現します。
確かに現象をこのように見ることはできますが、これも1つの概念であり、これを真理だと立ててしまうと、もう一方の概念、つまり無我に対する「我」、非二元に対する「二元」、「私はいない」に対する「私はいる」というような概念が同時に立ち上がります。
なお非二元では二元的、個別にみえる現象を「みかけ」「幻想」という概念をあてて、あくまでも「非二元の現れ」として扱い、論理の整合をとっています。

「無我」や「非二元」という概念(あるいは体験)にとらわれると、その反対の概念との葛藤状態に陥ります。なかなか無我になれない、なかなか非二元の意識状態を経験できないと。それもそのはず、葛藤していること自体が「既に知っているイメージの範囲での終わりのない往復運動」になってしまっているから。
たぶん、仏教や非二元に興味のある多くの方は、この閉塞したループに陥ってしまうのだと思われます。だからこの手の情報や体験を求め続けるのが終わらない。あるいは自分にも他人にもこの手の話を語り続けるのも同じく。

「葛藤は止んだ」と自分に言い聞かせて葛藤を無意識に追いやることもできますが、身体(からだ)は正直なので、生活の中で、関係の中で、必ず反応として現れてきます。
もし、僕と同じようにずっーと十数年もこの手の情報を追い続けているのであれば、それもまだ葛藤の反応であり、ある意味自己認識の途中にあるのでしょうね。

私はなんだかんだで20年弱ほどクリシュナムルティの言葉に触れ続けていますが(強弱はありますが)、正直読み始めた最初の1年で「ほぼ理解した」と思い込んでいました。
クリシュナムルティの言っていることは超シンプルで「絶え間ない自己認識」に尽きるからです。
しかし、概念的にはシンプルでも、日常の自分自身にこの矢印を向けるのはなかなか困難で、正直、困難ということさえ自覚できないくらいに自我の逃避プログラムにのってしまっていたんだなぁと今更ながら自覚します。

クリシュナムルティの語る言葉は、心の動きをかなり緻密に具体的に解説していて、素直に自身の心の動きと照らし合わせて読み進めれば、それ自体が自己認識のプロセスになるように構成されているのですが、自分のこととして読み進めているつもりでも、どうしても「自我というのは狡猾だな」「他者でこういうひといるよね」「普通の人は確かにこうだよね」「人類は愚かだ」「世界は未熟だ」と自身とは別の他者性として切り離し、あるいは「なんか難しい」「ピントこない」「わかりにくい」みたいな認識が立ち上がってきて、自身の自己認識に及ぶのを阻みます
そのくらい精神は巧妙に自己認識から逃避する反応を起こしているのですね。

概念をつかもう、概念にすがりつこうとする精神の衝動(つまり欲望)
これは相当に強力。
なので、固定的でわかりやすい概念での「答え」を避け、神や愛情や感情までも否定し、自身のもっとも見たくない理解したくないところに切り込みなさい!と、いやーなところを容赦なく突いてくるクリシュナムルテイの文章に耐えられない人は、僕のように仏教や非二元などの「無我」「私はいない」「現象は幻想」などの概念にすがりつきながら、そんなあなた(クリシュナムルティ)だって長年不倫していたんでしょ?言ってることとやってること違うやん、あなたの言っていることの信憑性はいかに?と否定し、葛藤を終えたような気分になってしまうのだと思われます。

ここではない、どこかに行こうとする衝動
今の自分ではない、何者かになろうとする衝動
他者とは違う何者かである、という自己イメージ
馬鹿にされたと思い、湧き上がる怒り
他者から言われたことでダメージをうけ、落ち込む反応
将来不安を安堵に変えるため、ひたすらにモノ、金、情報などの安心材料を求め蓄積する過程
将来不安を安堵に変えるため、絶対的な概念(神、教祖、信念)を中心に据え、中心概念の奴隷となって振る舞う過程
人間なんだから当たり前だし、しょうがないよ、という決め言葉
これは気質だからどうしようもないよ、という決め言葉
いまここ、この無限で不動の空間しかないし、
無我だし、無常だし、そもそも自分なんてないから、と
不安になるたびに自覚する練習
という様々な自身の反応

自分自身が今実際に何をしているのか、何をもって心理的な安心と満足を得ようとしているのか?
どうなると不安になり、ネガティブになり、不満をいだくのか?
心理的な反応、運動の全プロセスに、手をかけず、抑圧せず、そのままに、それがなんであるかという関心を持って刻々と見つめ
それ自体がなんであるかを開示するまで忍耐強く見守る
これに尽きる

みて理解すべきものはたった一つ
自分自身


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