#22 宮沢佳成、高松昭彦に会いにいく
高松
宮沢佳成・大学一年生が、高松昭彦・定年・高校非常勤、に茨城から兵庫に会いに来た。夜の駅で大きな旅行鞄を押して降りてきた宮沢との出会いは初なのに、ネット上のやり取りからすでに旧知の間柄という印象で、我ながら驚きもしなかったのは当然か。さて、わざわざ会いに来た宮沢は・・・。
宮沢
2022年9月20日、とうとうその日が訪れた。知り合ってから2年間、一度も対面で会ったことのなかった高松さんに直接会いに行く日。今回の旅のサブタイトルは「実存を確かめに行く旅」。今まで色々なことを語り合って、やってきた僕たち。でも、全ての活動は仮想で、ひょっとしたら虚構だったかもしれない。そんな心配事を解消しに行く旅だった。
言葉では形容しがたい感覚だった。これは本当。大きな安心感や親しみを感じつつも、どこか緊張していて他人行儀っぽくなってしまうこともあった。
せっかくなら、会話の一部を録音しておいて文字起しすればよかったかもしれない。そんな考えも脳裏を過ったが、すぐに消えた。話した内容は、2年前からずっと変わらない、道草のような話ばかり。この手の話は、一瞬で言語化して、一瞬でどこかに消え去っていくような、そういう儚さをはらんでいた方がしっくりくる。高松さんも同じことを考えているのかな。真意のほどは定かではない。けど、五感を使って出会う体験は格別だった。今までは無機的でしかなかった。これからは有機的。でも、やり取りの大半はネットなので、有機的な無機。
有機的な無機。アカデミックじゃないけど、アカデミック。役に立たないけど役に立つ。そんな反する概念を内包し続ける場でありたいと思った。
高松
宮沢君に出会って。すぐにぎこちなさもなくなり、あれこれ日常の話で過ぎていく会話が別の日常を取り戻すような感覚があったかもしれない。それを録音をしたとしてもその音声は消えていくべきものとして扱いうるほどに記録以上の意味がある。それを記憶という?。記憶は時間の前後をつなぎ脚色し生命体を与える。今まさにここでしかない時間を意識すれば、出会いに要した2年間の意味がある。自分が大学時代にできなかった夢のようなもの(夢とは明確にいわない)を重ねている。多くの人に出会っては消えのてゆくの繰り返しは、儚いけれど、それゆえに共にささえる人に出会う道草かもしれない。それは意図的に計画できるわけではない。無意識で受動的であるがゆえに意味がある。すべてを計画したとき、自分の生命の時間を計画することが可能になる。しかし、それは無意識で受動的で超越的な世界にあり追いかけること自体が不可能である。これからも宮沢君とはそのような世界に行きつ戻りつすることになりそう。
宮沢
高松さんと喋っているときに、高松さんが「宮沢は、未来からの使者なのかもしれないと思ってる」と言った。前段階の理屈を端折ってるから、実際のニュアンスとは異なるが、ちょっと嬉しいかもと思った。高松さんは、僕にとっての夢のようなものなのかもしれないし、僕は、高松さんにとっての夢のようなものなのかもしれない。そういう、時間的な曖昧さも含まった、高松さんの言葉なんだろうと思った。
人が夢を見ると、儚くなる。でも、それだって良いじゃないかと、それでも生きていけばいいじゃないかと、ちょっぴりカッコつけて思ったみたりした。