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#121 学校の授業に学習科学の知識をとりいれできないか?
ここでは学習科学についてお話しします。
学習科学の詳しいことは末尾のURLを参照してください。基本は、学ぶ意味 授業 学校がキーワードです。
一応定義しておきましょう。学習科学とは?
「人はいかに学ぶか?」の原理を基に教育実践の持続的な改善を支えようとする学問分野。前提には、人は誰しも学ぶ力を潜在的にもっている、ということ。(出典*「協調学習 授業研究ハンドブック R6」 一般社団法人教育環境デザイン研究所 CoREFプロジェクト推進部門 自治体との連携による協調学習の授業づくりプロジェクト 聖心女子大学 文部科学省委託事業「教員研修の高度化に資するモデル開発事業」)
学ぶというのは学校に限らない。大人になっても職業や社会生活で学ぶことは圧倒的に多い。いやその方が多い。ではどうやって学ぶのか、あるいは学べるようになるのか。むしろ人類は非学校的な学びの時間のほうが長い。
学習科学は1990年ごろにはじまる。対象は学校の授業。当初の授業研究は科学・教科をいかに適切に教授するか。研究においては生徒は実験材料で実験的手法や評価の測定対象だった。実験のシュミレートである。だが、その実験結果に基づいて実際に授業をやるとうまくいかないことも多いのは自明である。だからこそ学ぶとはなに?という学習科学が1990年ごろのアメリカでジャンクの寄せ集めのような状態から始まった。未開発の学問領域だった。
「後継者見習いが十分に機能しているところでは、教える技術は発達しにくい。(PP 168「学校の再生をめざして1 1992 東京大学出版会)」
時代の変化を変数に解説を付け加えてみよう。例えば江戸時代。
職業を受け継ぐ見習いの弟子はほっておいても学ぼうとする。なぜか。学ぶ内容が次の世代に確実に受け継がれる必要があることと、もっと言うとそういう時代が将来も準備されていること、それで経済的自立ができるという暗黙の了解があるからだ。そこでは教育方法などというものは必要がない。さらにいえば、そういう社会は階層が固定し、階層移動が困難なことを意味する。つまり自由は制限されている。
明治以降、国家による公教育の「学校と教師と児童と教材」というセットメニューが準備される。ここでは教材は単独で存在せず必ずセットになる。セットというのは制度そのもの。教材は教える材料で国家の統制によって選択される。教材はハードウェア。その方法は授業ごと教師ごとに多様で優劣もある。方法はソフトウェア。優劣のある方法では困るので授業方法論がでてくる。ただし子どもは将来全員が教師になるわけではない。だから授業にくるときに強力な動機付けをもっているわけではない。国家が要請した国民になってもらうことが明治の教育だとすると誘導ともいえる授業が展開する。
江戸時代に教材って言ったら、なにそれ?ってなったにちがいない。手習いの時代だからマネをすれば好い。それがいわば当時の授業。そこは師匠と弟子の関係で私的である。さきに行ったように階層移動が固定化し将来は決まっている。一方学校は教師と生徒という管理的関係のよって能力と適性の選抜のシステムになる。
振りかえって現代・今、将来見通しのできにくい「不透明な時代」。ではどのような教育が必要とされるのか。これはすでに学習指導要領にある「主体的で対話的で深い学び」である。問題はどうすれば実現可能なのか、だ。これこそ現場を抱える教師にとって大きな負担になっている。
これまでの学校の授業研究はおもにどのように教授するか、つまり教師にとっての教える技術や方法に焦点化された。今日、それは逆転している。学ぶ側の視点から学ぶとはなにかが研究されている。子どもから学ぶとは何かを聞き出すことは、その発達段階や言語能力からみて不可能だから研究者はそれを観察・調査・実験していく。その蓄積が出てきている。その集積の結果が学習科学という分野です。
参考