見出し画像

#119探究・総合の授業ができないわけを考えた(画像とは関係ありません)

個人的経験からなので一般論ではないことを最初に言っておきましょう。中高の総合・探究の授業を見たり開発しながら感じたことです。

日本の学校、特に義務教育学校には教科書があってそれに沿って授業が実施されます。実施というのと実践というのはちがうのですが、ここでは単純に同義としましょう。

そうなると、教科書を教えることが授業の中心になります。最近はそうでもないかもですが。教科書は誰かさんが書いた誰でもない人のための知識であって、しかも分量も予算上制限さているので、勢い教科書をつかって不足した内容を解説する授業が主流になります。しかも教科書には間違いがないことが書いてある。科学的でもあるから信用される。

つまり教師は教科書の解説をするとか説明をすることが授業だということになる。すると静かに聴かせることが求められる。相手の理解の程度に関係なく教科書をおわることが目的になる。だから学習規律が重視されて教科の本質がどっかにいってしまう。

結局、教科書は教科を学ぶ教材ではなく教科の内容を説明する教師の道具ということになってしまう。

高校の普通科で、教科書以上に重要なのは、受験に向けた参考書や受験対策問題集。受験が上位にくるとそうなる。得点をとるためのツール。

ここまできて何が問題か。つまり、教師は一度もカリキュラムを開発したことがないということです。高校で探究授業を作りましょう、といってもできる可能性が低い。できたとしても既存の既製品のアレンジで済ませようとするか、一から内容を作ってもそれを運用する実践方法論が貧弱で生徒の学習にてきした教材にならない。むしろそういう問題を把握したうえで探究を本気でやる人は希少になって、時間もかかるので一気にその人にカリキュラム開発をまかせ、負担が増大する。

高校の探究と小中の探究(総合)はどこが違うのか。内容はほとんど同じ。同じ内容のことをやっていて、ネットで調べてパワポにして発表するという方式。でもこれって戦後の経験主義の授業がやったことをツールをかえてやっているだけである。多くは地域調べとか伝統とか、地域の特産品。かつては郷土学習といいました。パワポだとやってる感はあるけども実にその内容が低いことに驚くことがある。データもないし先行研究もないし精緻化されてないし、それ以上に本当に興味あるのかどうかも怪しい。

問題は探究(総合)をやってどのような学力が付くかが明確になってないことと、総合という以上、各教科の学力ブレンド力がないことにある。内容と計画のないことにもってきて、運用・実装する教師のサービス力に差があることも多い。こういう授業で重要なのはエージェントとしての生徒自身になる。つまり生徒まかせ。

郷土学習は先人の苦労や知恵、生活向上への苦労や歴史的な遺産の評価など、あきらかに自身の住む地域への誇りをもつことが大事だとされた。一方現在の探究(総合)の取り組みの多くは、人口減少・ジェンダー・気候・環境など、単純に地域の問題を科学的根拠をもとにして解決する志向性と、さらには相互に関連している複雑性を持つ問題への解決、または貢献を志向している。いうなればグローバルであるし教科は越境する。ローカルはグローバルにつながり教科は統合力になる。

思考をサポートする各教科の授業がそうした問題意識を浮上させたり刺激することが重要だし、包括的な能力活用が探究(総合)授業になることを意識する必要がある。教科授業と探究(総合)は互恵性をもつ前提がないとそれぞれが独立しているままである。

このように。ご飯が教科として、そのオカズにピザやカフェオレを投入するような、オプションの違和感と系統性のない探究授業になるのはなぜか。しかもその授業を外部講師が実施すると、授業の構成要素がないセミナーになるのはなぜか。ご飯がないからではないか。

せめて、ふりかけと梅干、漬物と納豆、位のアレンジが必須である。これ以上のオプションではなくエッセンシャルな授業に回帰する視点で教科書を再読してはどうだろうか。発展型の課題にはそういう要素が意図的に追加されています。同じ漬物でもすこし高級ってかんじで。教科授業でふりかけぐらいは準備できるだろうし。

ちなみにFMラジオ805たんば  で  ふりかけラジオ やってます。