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「人が好きでない」を受け入れる
Spotifyはアルバムに収録されている曲を全て聴き終わった時に、ネットに接続されていれば似たような系統のアーティストの曲を自動で流してくれる。
知らないアーティストに出会える機会を増やしてくれるこのシステムはとても好きだ。
春ねむりに出会ったのも、この機能がきっかけだった。
電子系のBGMに乗せて歌い、語り、叫ぶ彼女の音楽は、僕が今まで聴いたことある音楽のいずれにも当てはまらないようなものだった。
春ねむりの楽曲の多くは、俗にポエトリーラップと呼ばれる形式で歌われている。ヒップホップとはやや離れた、あたかも詩を朗読するような歌唱スタイル。
アルバム全体を通してこちらに問いかけてくるように投げかけられる言葉は、幾度となく心にズサズサ突き刺さる。
死ぬまでに一度はライブに行って、存在をこの目で確認したいと思った。
作品が魅力的であればその人を知りたいのは常である。
ネットにて発見した、彼女のインタビュー記事。
そこで次のようなことが述べられていた。
私、あんまり人間が好きじゃないんです。
私は人が嫌いだから、あんまり仲良くしたくないんですね。
涙が出そうになった。
集団で暮らさざるを得ない現代において、この言葉をインタビューしている「人間」に発言しているのが凄まじいと思った。
言葉としての強さ。
そしてこの人は、本当にどこまでも純粋で素直で、繊細な方なのだと思う。
ただ感傷的になった理由はそれだけではない。
僕も、人があまり好きでないから。
人より表現が好き。
しかし友達と呼べる人や親しい仲の人もいないわけではない。
ただそんな人のほとんどが、表現をする人や表現を鑑賞するのが好きな人だ。
ただそんな人たちとも長時間会話を続けてくれと言われたら、僕にとってはなかなか難しいと思う。
複数ならまだしも、サシだと辛い。
誘われた飲み会では人の話を聞かず、上の空になってしまうことがよくあった。
人への興味は、他の人より薄いのだと思う。
それなのに…
人が好きなフリをしながら暮らしている。
国外に行けば「表現」に携わっている人に出会うのはより難しくなる。
田舎町の現環境で、周りにそういった人はほぼいない。
時に孤独は辛い。
それを紛らわせるために、取り繕うために、人に思ってもない媚びた言葉を吐いている。
それは俺にとって、他人が行っていて一番腹の立つ行為だろうが。
やめよう。
素直に生きよう。
少なくとも今は、孤独が何かを生み出すのを期待しよう。
まあたまには話すのも良いかもね。
媚びない程度に
数少ない好きな人を、もっと好きになろう。
本当を吐き出し、
偽りは燃やす。