シモキタに居場所を見つけたい(映画『街の上で』感想)
『愛がなんだ』に続けて観た今泉監督作品『街の上で』。
海外に出て久しく、日本の都会が恋しい自分にとって鬼刺さりの作品だった。
全編通して感じられるサブカルの聖地、下北沢の匂い。
前半部分の喫茶店の会話部分でドイツの巨匠、ヴィム・ヴェンダースの名前が当たり前のように出ていたことに興奮と安堵を覚えた。実際の下北沢でもこんな話が繰り広げられているのだろう。
またなんといっても、出てくる異性のほぼ全員がザ・サブカルな雰囲気をまとう、自分にとってのドストライク揃いだったことも言及しないわけにはいかない。
古本屋で働く落ち着いた雰囲気の田辺さん、自主映画を製作しているショートカットの大学生高橋さん、そして、城定イハ(いや城定イハってなんだよ、名前からもう反則なんだよいや城定イハってなんだよ)。
あの手の女性は強い「個」を形成する独自のオーラをまとっている。流行りにとらわれない。触れてきたサブカルの引き出しから自分の知らない価値観を共有してくれたりするのでお話してても底が見えない。
何より発する言葉に気を遣っている。
高橋さんが、空いている古着屋のカウンターに座っている主人公の荒川に別れの言葉をかける。
そして店の出口まで歩いて行って立ち去ろうとした時、
高橋さんがお辞儀をした後、分厚めの本を両手で抱えながら立ちすくむ荒川。
自分を俯瞰で見て気味が悪いのを承知で、このシーンでものすごくニヤけてしまった。
この人も、自分の発言反省会は常なのだろう。
言葉の持つエネルギーを信じているからだと思う。
あらゆる表現の基盤になるのが、言葉だから。
今自分が一番求めているかもしれない、「クリエイター同士のつながり」といった部分も少なからず感じた。
前述の通り、下北沢で古着屋の店員をしている主人公の荒川は、高橋さんに声をかけられ、映画に出演することになる(結局下手すぎてシーンはカットされてしまうが…)。
そこから人間関係が、良いとも悪いとも定義できないような、思いもよらない形に進展していくのである。
荒川は現在「表現者」ではないが、映画を撮り終え、一連の事件が終わった後、かつて自作した曲をギターで歌い始める。
元恋人とのやり取りなどもあってただ突発的にセンセーショナルだっただけとも捉えられるが、
下北に溢れるクリエイターたちを通して、何か感化される部分があったから起こした行動のようにも思えた。
荒川は、これからまた隙間時間に音楽活動をしていくのだろうか。
何にせよ、クリエイターや表現者と直接話をしたり、関わることができる環境がとても羨ましく感じた。
オーストラリアという海外に身を置いて久しいが、
時折疎外感を感じることがある。
周りと興味関心が異なることが多いから。
この作品はそういった感情を強く癒してくれた。
自分が強く肯定された。
これまで気づかないところで押し殺してきたであろう感情や衝動が解き放たれた気がした。
オーストラリアには翌年9月まで滞在予定だったが、
日本への帰国を早めようと思っている。
まだ何者でもない不安はあるが、それよりもあの渦巻いた価値観やカルチャーが纏わりついている、特有の街の匂いが恋しい。
下北とか、ゴールデン街とか、
あ、いやでも酒はもういいかな。
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