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1044/1096【往復書簡】最高の神孝行はこの世の満喫

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1044日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1044日目。時間のない日なのに、往復書簡のお返事を書くことに決めてしまった。決めてしまったからにはやるっきゃねえ。

いや、やっぱり怖い!!今日こそ間に合わないかしら!!
いや、何がなんでも間に合わせるぞ!!
わかったわ、アタシやるわ!!
そうだ、その意気だ!!やりきるんだわかったな!!

ああ自分は誰と話しているのだろう、時間がないと、人は分裂気味になるのだろうか。ってもう、いいから行け!!書けー!!突撃ー!!

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圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さん、おはようございます!!わたしは最近、夕方から隣のモリアーノやトレヴィーゾのそばのカズィエーラという街などに出て、大好きなスプリッツ・ビアンコというイタリアの発泡白ワイン(フランスでいうシャンパン)のカクテルを飲んで、人で賑わう街やゆったりと流れる川のそばを散策しています。このようなちょっとした楽しみで、夏を満喫しております。

晴れた日の夕方のヴェネツィアは、天国のキャラメルが溶けたみたいな金色の光をまとって、言葉に尽くせないほど麗しく優雅な姿を見せてくれます。それを見るたびに、なんということだ、自分にこんなに幸福なことがあっていいのだろうか、目があってよかった、地球人になれてよかった、と思います。そして、イタリアに居るからそう思うのではなくて、きっと今のわたしは、日本のしがない街の侘しい公民館の前にいてもおなじように感じるだろうと思いました。そんな自分は今日、外を歩きながら、全身の細胞に満足が行き渡ったかのように感じました。そして、こんな思いをするだなんて、わたしの人生は最高の成功だなと思いました。人生には成功も失敗もないのですが、でも過去のすべてがこのためにあったと言ってもいいと思いました。

これまでにも何度か同じようなことを書いてしまっていますが、わたしは過去のすべてを書き換えることはいつだって可能で、それが「今」なのだと思います。過去にどんな事があれ、今この瞬間を幸福だと思えば、過去のすべてはこの今に至るために必要だったこととして報われ、過去にただ手放しの感謝が湧いてきます。それが癒やしにつながります。

大変だったり悲しかったりしたことも数え切れず、さんざん自己嫌悪や劣等感に苛まれたこともありますが、なにもかもをそれで良かったと思います。過去を書き換えるのに過去に固執する必要はなく、生命への愛フルマックスで今を堪能すればいいだけなのだと思います。過去を癒すためには、過去を今任せにすること。過去を愛するには今を愛すること。過去を書き換えたければ、自分というものが今にしかいられないのだと思い出すこと。過去を思うのはいつだって今であると認めること。どんなに過去を思ったとしても、そのために今を消費しているのだと気がつくこと。過去のすべては今にあり、今にかかっているのだと思います。今を愛せなかったら、どうやって過去の経緯を愛するというのか。後悔への特効薬は、今の満足。わたしは自分の人生を愛しています。低スペック人生ですが、人間としてものを思い、五感を使って感じることができたことを、つくづく面白いことだと思います。

最高です!!壇珠さんの一石には二兆円の価値があります!!これが本当の一石二兆(二鳥)と言いたい!!大変失礼いたしました!!自分を芳香剤だと思うのはスーパーグッドアイデアですね・・・早速、飛行機の中で試しにフレグラってみました。すると、私という存在が溶け出してバッハの旋律のように美しい波動が空間を満たし、ふふふ、お前ら(乗客のみなさま)俺と同じ飛行機に乗れてよかったななぜならば今日のお前らは俺の空気に触れてしまった手前幸せにならずにはいられない一日を送ることになるからさふはははは!!参ったか!!ざまーみろ!!幸せにおなーり!!みたいな気持ちになりました。上から目線で申し訳ないのですが、こういう時は上から目線がよいのだと思います。神目線になることが即効性を高める気がします。もしも、私の上から目線に対して私以上に上から目線でフレグラってくる人物が現れたら「こいつ、できる・・・!!」と私の細胞は畏怖に震え、そしてこの人と友達になりたいと思う気がします。友達になれなくてもなんか凄いやつに出会えた今日は最高の一日だなと思える気がします。

一石二兆とフレグラってみるという表現に声を出して笑ってしまいました。わたしも神目線を試すのが大好きです。そして、この神目線はやってやってやりまくっているうちに習慣化すると、自分に備わったものになってしまいます。一種の癖のようになり、デフォルト化します。わたしは神気分で世界を観て歩くのが好きです。もちろんそれは勝手に神気分を想像しているだけなのですが、こういうことは教わったとおりにやることなどではなく、自分の勝手でやるから面白い影響があるのだと思います。ひとりひとりの人の、神の定義や、自分がどういうところに自分の人間らしさというものを見い出しているのかが反映されるものだと思います。

たとえばわたしが神さまだったらと考えながら外を歩く人を見ると、「みんな生きていてなんと愛らしいことか」と思ったりします。「なんとオリジナリティに溢れたユニークな存在か」「誰にも苦しんでほしくないな」「元気で楽しいことをたくさん味わってほしいな」「どこまでも好き勝手に幸せでいてほしいな」と思います。しかし同時に「苦しむことも含めどこまでも好きなように、無限に自由にしておくれ」とも思います。それから「わたしの分身たちよ、つまりわたしよ、素晴らしいね、ご苦労さま」「人間をやってくれてありがとう」「無制限に生み出されるパラレルワールドを移動して、どんな世界でも好きなように創り出して楽しんでおくれやす」と思います。神様ごっこをすると、自分はやたらといいやつになります。そしていつも涙がちょちょ切れます。

そのまま自然界を見ると、「嗚呼、この宇宙はこうも傑作だ」と思います。自然破壊を悲しく見ることもできれば、何もかもがこのままで良いとも見えます。また地球をピカピカにしたければ、俺は神さまだから自由にそれを創り出して楽しめるから、どこまでも自由に事象と体験が起こればいいのさと思います。これはわたしの神様像なので、他の誰かにそれは間違っている、神さまはそんなことは思わない、などと指摘されても関係がないと思っています。なぜなら、わたしは神様ごっこでおおらかにご機嫌になるからやっているからです。自分のご機嫌を守るSECOMは自分で担当しています。

たとえばそういういうとき、わたしは元来心が大変狭く愚かなので、「間違いもなにも、あたしゃの勝手じゃわい、あんたは神さまの実態をどこで知ったんじゃボゲェ」などと思います。そして、そう思うだけならばいいのですが、その後もしばらくは思い出すたびにその気分が転写されがちです。そんな愚かしい自分にとっては、神さま気分が習慣化していることで、優しくて慈愛に満ちた気分にパッと切り替わることで、一度湧いた嫌な発想がどうでも良くなるのは便利です。神さま気分でこの出来事を見てみれば、「その人がこちらに間違いだと指摘することで、その人自身の機嫌が良くなるのならたしかにめでたきことだ」と思うし、また同時に、「でもこの人、なんか大変そうだな」と思っちまいます。そして、「そんな君よ、そんな君をやっている自分の分身よ、つまり自分よ、ご苦労さま」と思います。神様ごっこでそのような感覚に慣れていると、そんなめちゃくちゃ意外な、慈悲や慈愛や憐れみをもった層の自分に出会えるので、えらい便利です。長年やってきてよかったなと思います。これはわたしに必要なことだったと思います。人は自分に必要な修行がなんなのかということを、自分の奥ではちゃんとわかっているのかもしれませんね!!修行とは大変で辛いものなのではなくて、自分の気分が良くなることを自分でやって身体に染み込ませることなのではないかと思ったりします。そう考えると、修行とはなによりも楽しいことですね!!笑って生きていたら、それが最高の修行なのだと思います!

思い悩んでばっかりいる人を見ると「よろしく浸ってんじゃねえよ」と思います。お前いつまでそれをやってんだよと思います。前会った時も同じこと言ってたじゃねえかと思います。お前は何処にでも行けるのになんでそんなところにいつまでもいるんだと思います。自分に同情するなと思います。まずはその被害者面をやめろと思います。お前は癒しが足りないのではなく癒され過ぎて腐っているんだよと思います。相手が女性なら「せっかくの美人が台無しだぜ」って思います。アロマばっかり嗅いでんじゃねえよ。もっとこう、野生を嗅げよ、命を嗅げよ、生命が爆発するような感動に触れろよと思います。生々しい血の臭いが蔓延するジャングルに足を踏み入れたら、憂鬱や退屈なんて一発で吹き飛ぶぜって思います。

この「よろしく浸ってんじゃねえよ」が大好きです!!さきほど上の神さまごっこのことで、たとえ本当のことだろうとも、なんか自分のいい感じのところをクローズアップして書いた感じがして清々しくないので、あたしゃここで、勇気を出して自分の性格の悪さをぶちまけてみようと思います。またラブソングの悪口のようになってしまいますが、いや、実際悪口なのですが、「君がいなくなってからずっと笑うこともできない」とか「君は僕のもの、だからまた必ず抱きしめる」とか「何年経っても色褪せない思い」とか「君が去ってから僕は人を愛せない」とかいうのを聴くと、「しつこさキモー」「独占欲の鬼ウッザ」「いつまで執着してんだよ、寒すぎ氷点下だろ」と思ってしまう自分がいます。まさに、よろしく浸ってんじゃねえよです。「あなたにわたしのすべてをあげたのに」「だから早く気がついてよ」「あなたがいないと生きられない」「あなたはわたしじゃなきゃダメなの」「ねぇ思い出してわたしを愛した日々を」「そうよあなたはわたしのもの」「だからここに帰ってきて」みたいなものも、なんか怖いです。その女のもとに帰ったら井戸に引きずり込まれる気がして怖いです。まさに浸りすぎを美化した、メイドイン井戸の底の、呪いの怨念だと感じます。悲しみに浸ることを美化する世界には、ロシア最北の刑務所の独房レベルの極寒を感じます。

なにかの悲劇に浸っている人に対して、こちらがそれを察して同情してあげてしまうと、その人は知らぬうちにその悲劇を「同情してもらう手段」として使うようになってしまうということが、多々あると思います。そういうときは、下手に癒そうとするとますます深みにハマって、圭吾さんの言葉通り、腐ってしまうのだと思います。運動不足の人が筋肉が弱ってしまったせいでいつも疲れるとして、疲れるなら動かないで休みましょうと言って寝かせていたら、ますますその悪循環を強化するのと同じだと思います。

その沼からぶち抜けて帰ってくるには、それどころじゃない事態、浸っていられないような危機は本当に有効ですね!!わたしは短期間とはいえホームレス経験者ですが、あの経験は宝だと思います。危機というのはバネのようなものであり、それは人をしゃがませて一気に飛び上がらせてくれます。それは、鬱積した塵のような不満を吹き飛ばす効果があるのだと知ることができました。より動物的な野生の感覚を働かせなくてはならないとき、「くっだらねえことでいつまでもグダグダウジウジ言ってんじゃねえ!!いいから生きろ!!」という激励が自分の中から溢れ出て、わたしたちを超活性化してくれるのだと思います。これは素晴らしい浄化だと思います。

わたしは、人はみんなもしかしたらこの物理世界に命を持って存在することで、終わったことを終わったとか、自分のものではないものを自分のものではないと認める修行に来ているのかなと思うことがあります。わたしたちの世界は、浸っていても仕方のないことだらけだと思います。いずれは自分の人生にすら浸っていられなくなるのを思うと、どれだけ執着を捨てて潔く今を見ることができるのかを問われているような気がします。

なにかに浸っているというのもなかなか乙なものですが、それはあくまでも、好きなときにその沼から出られてこそだと思います。着脱可能、浸脱自在でこそ遊べるのであって、入ったら出られない沼や海で泳いでも楽しくなんかありません。どんなにおしゃれな服だって、脱げるからこそ着るのが楽しいのであって、脱げなくなるなら喜びではなくなってしまうと思います!

清々しさ、本当に大事だと思います・・・これこそが我らの生命線だと思います!!清々しさ、潔さ、晴れやかさ、爽快さ、痛快さ、軽妙洒脱、粋、豪放磊落、など、大好きな言葉です。それだけを追いかけていたら、路頭には迷っても生き方には迷わないと思います。

路頭に迷っても生き方には迷わない…!!これはめちゃめちゃすごい名言だと思います。大抵の人は、路頭に迷ったらそれ即ち生き方に迷っているということだと判断するのだと思います。でも、外側がどうかということを、生き方に迷っているかどうかの証拠にすることはできないのだと思います!!

一般的には、著名だったり自分の事業を立ち上げて成功しているなどで仕事がうまくいっていて、お金がたくさんあって、人間関係がうまくいっていて、友人にも恵まれ、病気もしないで生きている人のことを、成功者としてお手本にして憧れます。そして、そういう人は迷いがないのだと勝手に思ってしまいがちですが、それは非常に狭いものの見方なのだと思います。世の中には自分の生き方を迷わず貫くことで、お金を失ったり、亡くなったり、仕事をしていなかったり、広い交友関係を持たずに生きている人もたくさんいますよね。そしてその信念はその人を幸せにしているということも、たくさんあります。わたしは生き方というものが定まっているわけではありませんが、しかしあえて定めるとして考えたら「常に自分が選んでいるのだとわかって生きる」「外側で遊びながら、外側に惑わされないことを目指して生きる」と言えるかなと思います。究極を言ったら「生き方なんてどうでもいい、と考えることにビビらずに生きる」みたいな感じかもしれません!!

路頭に迷ったら、学校で言うところの「休み時間」に、ゲームで言うところの「ボーナスタイム」に入ったと考えたいと思います。まさにそのときは、今こそ本気で遊ぼうという時間なのだと思います。それ以外は授業中なので、学びたいところだけ学んで、いらないところではどこまでサボって遊べるのかに挑戦すると丁度いいような気がします。「学び&サボり」も「本気の遊び」も結局遊びですが、このメリハリが面白いと思います。

休み時間の本気遊びを楽しくするのは、未知への好奇心と、自ら新たなルールを設けて遊ぶ主体性だと思います。これまでの人生でミニ路頭迷いを何度か起こしているわたしですが、あの究極の断捨離のあとのような「今こそ我自由の身なり」感にはすごいものがあります。会社を辞めていきなり予定のすべてが白紙になったり、離婚をすることでいきなり世界中の男性が彼氏候補になったりするのは、まるでプライベートビーチで遊んでいたら、いきなり法律が変わって海は誰のものでもないと定められた感じといいますか、失っちゃいるがそれ以上にむちゃくちゃたくさん得たと言える体験です。自由爆弾でこれまでのルールごとふっ飛ばされる衝撃です。

無限の自由を得ると、人は逆にルールが欲しくなります。広すぎるグラウンドにボールをひとつもらうと、自由すぎて面白くありません。するとわれわれは、ここのラインから出てはいけないだとか、ここに当てたら一点だとか、そういうルールを設けて遊びたくなります。こうして、ルールを自分で決めて自分に課して遊ぶとき、その遊びを最高に面白くしてくれます。誰のせいにもできなくて、自分で引き受けるしかないときこそ、被害者になるという概念から解放されて、自分と本気で遊べると思います。そうした過程によってわれらは、この地上での生き方を改めて洗い直すことができますね!

広い世界を見てみたいし、自分の本気を見てみたいし、自分がどこまで通用するのかを見てみたいし、自分の思い込みをハンマーでかち割られて「なんじゃこりゃー!」とか叫びたい。家族に見守られて死ぬ自由があるのと同じように、俺たちには、野垂れ死ぬ自由もあるのだと思います。あなたは愛されていると言われるよりも、俺たちには路頭で死ぬ自由があると言われた方が、捨て身の身軽さを感じるから好きです。

わたしと圭吾さんの似ているところは、「広い世界が見てみたい」「自分の本気を見てみたい」「自分がどこまで通用するのかを見てみたい」「自分の思い込みをハンマーでかち割ってなんじゃこりゃー!と叫びたい」という望みを、人生で最も燃えるものとして設定しているところだと思いました!!

あたしゃは思うのです、結局面白がりたいのだと。そしてそれは結局は満足度を高めるためなのだと。満足というのは、たとえば車を買いたいとして、買って満足するのもひとつの満足の仕方ですし、買わずとも十分だった!と理解して満足するのもひとつの満足の仕方だと思います。そして、わたしはそれらの片方のみを知るのよりも、「買うも満足、買わぬも満足」というふうに、どちらでも満足できる自在度の高い状態をかっこいいと思います。

捨て身の身軽さというのはわたしたちを、この「自在度」においてハイスコアを叩き出しやすい状態にしてくれると思います。もう身軽な時点で嬉しくて強気が湧いて満足感もあるため、なにがどう転ぼうとも問題じゃねえぜという気持ちにさせてくれ、結果自在度が高くなると思います。これはある意味皮肉なことですね!人は自分をひたすら守って満足を得ようとするのに、捨て身になったときこそ自在度が跳ね上がり、結果満足度が爆上がるだなんて面白いことだと思います。ディフェンスばかりしていたら、シュートをするドキドキもゴールを決める快感もないのだと思います。ミットを構えるばかりでバットを振らないやつには、ホームランは打てないのだと思います。俺たちゃ、たまには自分を捨てて自分の欲しい物を取りに行くことがあってもいいのだと思います!!忘れねえ、これを忘れねえぜ!!うおあ~~!!

そして・・・壇珠さんが何を書ても「え、こいつなに言ってんの」などとは絶対に思わない自信だけはある、俺です!!どんと来いです!!もしも俺があんまりよく理解できなかった時は、俺の理解力が追いついていないだけです。理解できずとも壇珠さんの言葉と共に生き、数日後、数ヶ月後、はたまた数年後に「はっ!壇珠さんが言っていたことは、これのことか!」って、線と線が繋がる未来をたやすく想像できます。だからもう、何でも書いていただけると嬉しいっす。それによって、毎回引き上げられている俺です!!

もう、なんか申し訳ないくらい、強烈にありがとうございます!!幸福すぎます!嬉しきことです!!そしてこちらこそこの往復書簡を通して「うわ~圭吾さんの目というのはどれだけ透明なのだろう?!」「なぜこんなにもニュートラルな目で世界を見ることをキープし続けられるのだろう、すごすぎるんだが!」と、感動にさらされることばかりです!!なのでこうしてやり取りできることを、光栄に思っています。いや~こんなに幸せでいいのだろうかと思うほどです。なんでも書きます、思いつきのままに!イエーイ!

私たちの体がなににでもなれるもので出来ているのなら、私たち自身もなににでもなれる変幻自在な存在ということですよね!!私は、たまに、自分が風になったような想像をします。目を閉じて、風になって、会いたい人に会いに行く想像をします。

なんと奇遇なことでしょうか!!わたしもよく、風になってみたり、土になってみたり、地球になってみたり、海や水や炎になってみたりします。

面白いのが、なにかになってみるとき、これはこういうものだというイメージや思い込みを捨てることになるということです。すると、なにになってみても結局は、それはただそれそのものであることを受け入れているだけで、ある意味でなにもしていないのだなと感じます。自然界のものは、なにかをしようとしているというよりは、それ自身であるだけだと思ったりします。

すると、たとえば火になったつもりが、言うなれば火であろうとすることを放棄して火そのものであることに身を任せきっている感じになってしまいます。そのとき、結局はわたしは火でも自分でもなくて、自分が自分であろうとすることを放棄して「自分であること」になんの抵抗もない状態になっている感じがします。

そういう瞑想のような想像のようなものをしてから自分に戻ると、もうなんでもいいからただ生きようと思ったりします。ただ世界の中にいることを観賞しよう、ただこの宇宙を漂うように好きにしていよう…と思います。

風になって人に会いに行くの、すごくいいですね。わたしも意思を持った風になってみようと思います。今やってみたら、飛べる透明人間になった感じがしました。自分の身体がどこからどこまでと決まっていなくて、もっといい意味であやふやで自在な感じもしました。わたしは早速ホワイトハウスに入ってみたり、イスラムの危険地帯に入ってみたり、圭吾さんにシュルシュルと巻き付くように螺旋状に絡んで、気づいてくれるかどうかを試してみたりしました。お、面白い!!なぜ自分はホワイトハウスに入ったのだろう!他にも田んぼの表面すれすれに飛んだり、タニシの張り付く水路の水面ギリギリを飛んでみたりしました。まるで透明な龍になったような感覚ですね!!なんじゃこりゃあ!!これはなにか意識の一部がとても活性化され、開発される気がします!!今後もやってみたいと思います!!

人並みに生きられる人だけが祝福をされて、そうではない人は祝福をされることはないだなんて、そんな話があるものかと思います。私は、本人がその気になりさえすれば、いつだって祝福を受け取れるものだと思います。受け取れないことがあるとしたら、一時的に拗ねているだけだと思います。受け取れないことは絶対にない。それは受け取れないじゃなくて受け取りたくないだけなのだと思います。

ぶわーーーー!!これをわたしも本当にそのとおりだと思います!!人は祝福されていると思っていようが思っていまいが、どんな状態にあろうが、常に常に祝福されているのだと思います。わたしは祝福などされていない、それに値しない人間だもの。と思っているときですら、その状態のまま祝福されているのだと思います。だからそれは、よろしく浸ってるということなのだと思います!!

どんな人も、どんな状態にあろうとも、何かの状態を実現している時点で祝福されているのだと思います。その状態にあることが許され、実現されていることが祝福だと思います。だから、わたしは祝福などされていない、それに値しない人間だと考えている人は、そう考えることが宇宙に受け入れられているということだと思います。それはまさに自由ということだと思います。われわれは自由になるのではなくて、すでに自由だったと認めるだけなのだと思います。

「我思う、ゆえに我祝福のもとにあり」だと考えると、今もこんな自分がこうしてすごい奇跡の星に存在していることが、照れくさいくらい誇らしくてやばいっす。え、いいんスか?自分もいいんスか?とか思っちまいます!!

かわいい雲や、風にそよぐいかにも達観した姿に見える木々、讃えようもないほど傑作すぎる青い空、白金にきらきらしている星たちなどを見ると、あんまりに素晴らしいので、これらのある世界に、自分の存在があることを許されているのが不思議なくらいです。ナチュラルに懺悔です。すんません!俺なんかが、ほんとすんません!めっちゃくちゃ嬉しいっす!こんなに美しい環境に、俺がいていいんスか!いいってことなんスね、もうありがとうすぎて、なんと言えばいいかわかりません!やったぜすぎます!!俺だけじゃなく、この世界のなにもかもが祝福されていると思うと、なんかもう、何もかもがすごくて、どんなものにも優劣なんかなくて、そう考えたらこの世はひとつっスね!ありがとうございます!!自分、頑張って生きるというより、頑張るとか頑張らないとか関係なく、なんつーか、この生命のあるうちにこの世を堪能します!!命を堪能します!!この世界にいることを堪能して満喫します!!感じ、味わい、この三次元の地球上の環境で遊びます!!この世に送ってくれた神さまへの最大のお礼といいますかいちばんの神孝行は、この世界を満喫することだと思います!!それ以外に目的なんかない気がします!!と思ってしまいます。自分は今日もまだここに居られて、本当に嬉しいっす!!!

今日も、わたしも圭吾さんも読者さんたちも、みんなが祝福されていて嬉しいですね。みんな今日もよく生きましたね。一日の終りには、その日がどんな日だろうと、どんなことを思ったりやったりした自分でも、祝福されていたこと、宇宙に受け入れられていたこと、存在が許されていたことを思い出せたらいいですね。そしてそれはすべて愛されていたことを思って眠りたいです。

ってなんかいい感じのことを書いた俺は、今日も仕事中にビールを飲んで、シーツ替えをサボってチャットで遊んでいました!!そんな俺です!そんな俺なのにいつもこうして書簡のやり取りをしてくださり、ありがとうございます!!今回も、読んでも書いてもバカみたいに幸せでした!一層の感謝と愛とを込めて、この星のどこかにいる圭吾さんと読者さんへ届け!!せーの、テクマクマヤコーン!!!

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菅 美智恵 (壇珠-たんじゅ-)
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