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1057/1096 死ぬこと”以内”ぜんぶネタ
吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1057日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です
1057日目。仲良しのクロアチアのゲーム友達とイスラム社会について話していると、本当に考えさせられる。クリスチャンの社会で育ったイスラム教徒の彼は、「イスラム教徒である前に善良な人間でなくては、どうやって善良なイスラム教徒でありえようか」と言った。そして「(すべての国、すべての社会、すべての宗教に身を置く)すべての人を尊重する」と言った。わたしはそう言い切る日本人に、これまで会ったことがあったろうか。
わたしたちはれっきとした宇宙人なわけだが、自分がたまたま地球人だからといって、おなじ地球人の話をナメてはいけない。わかった気になってはいけないと思う。実際に地球という現地で生きている地球人の生の声を聴くのは、それ自体がとてつもなく興味深い体験だ。そのために自分も地球人になったと思うと面白い。自分が地球人であるということは、地球人へのスムーズなインタビューをするのに最も適した状態であると考えることができると思う。こんなふうに、地球人である特性を活かそうという観点で行動を決定していくと、生きることから深刻さが抜け、気楽で真剣な楽しみが満ちてくる。
日本にいるからといって、日本に流れてくる報道、日本にまかり通っている常識、日本語でしか書かれていないことにばかり目を向けていると、地球上の日本という国のみで出回っていることだけに詳しい人になっていく。もちろんそれも一種の専門家であるという意味で一興だけれども、「わたしは日本で言われていることしか知りません」という自覚があったほうがいいのではないだろうか。
自分が知らないことがたくさんあるとわかっているのは健康だと思う。わたしはイタリアに住みはじめるあたりの11年前ほど前からさまざまな国の知人と交流するようになったけれども、それでも世界のほとんどのことを知らない。
この星に生まれて気がついたことは、知欲を持つ者にとって一生というのはあまりに短いということ。そしてその悔しさはそのまま、われわれの幸福感になり得るということ。こんなにも興味深く、緻密で大胆でファンタジックな、飽くことのない世界。それを知り尽くすことのできない切なさは、この世界の素晴らしさを認めたからこそ感じられることだ。
思い思いの方法で、この天体上にいることを堪能しよう。そこで感じたことを表現しながら生きよう。自分自身が情報であることを楽しもう。わたしも今日もこれを楽しんで書くぞ。楽しむことを、善良なことだと思う。
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昨日の秘行の中級のお茶会でも話したことなのだけれども、わたしは人生を消極的という意味でネガディブに見ている。どれだけ勝ち取って、どれだけ成功して、どれだけ夢を掴んだかというポジティブ設定で見ていない。
どういうことかというと、ちょうど鬼滅の刃の最終選抜のように、「ここで指定の時間まで生き抜いたら勝ち」というように見ているということ。人生に置き換えてみると、自分の寿命まで生き抜ければいいと思っている。そこにいろいろな体験が乗っかってくる。どんな体験も、生き延びた+αという感じだ。感覚的なものを表現してみると、感謝+娯楽の喜び、と言える。これはもともとそうだったわけではなくて、途中で切り替わった。
わたしは自分がどうやって死ぬのかはわからないけれども、きっと「いや~すげえ!死の体験って意外にこんな感じなのかァ~」と思いながら死ぬような気がしている。死因は病気か事故か老衰か殉死か過労死かわからないけれども、それまでの時間をとにかく生き延びればいいと思う。
とにかくこれを書いている今も、こうして生き延び続けている。そこにずっと成功している。結構な満足感がある。そんな感覚をもって見てみると、「せっかく生きているんだから、夢を叶えなくちゃ何のために生まれたのかわからないじゃないか」みたいな考え方が、たいへん眩しく、かつとても大変そうに見える。
人生をイージーモードで歩んでいいことを許可してしまうと、ハードモードで歩むことはあえて楽しめるときだけでいいように見える。そして、多くの人が自らの人生をハードモードに設定する以外の選択肢を持っていないように見える。好みに合わせてイージーモードも選べるほうが便利な気がする。切替可能な方が自由度が高いと思う。
この毎日投稿を書いているのは、自分的には自ら設定したハードモードでのプレイにすぎないことで、一種の娯楽だと思う。なぜなら、書こうが書くまいが、それが生き延びられるかどうかということにはほぼ関係してこないだろうからだ。だから本当になんのせいでもなくて、自分で勝手にハードモードを楽しみたくてやっていることである。
「死ぬこと以外かすり傷」という考え方があるけれども、これはとてもポジティブさを必要とする考え方なのだと思う。人生に起こるさまざまな傷をかすり傷だと思って生きる。さらに、死ぬことは致命傷を負うということだ。
かすり傷を痛いと思っちゃう自分が弱いんだ。死ななかったからマシだと思わなくちゃ。最後に死ぬときだけが本当に辛いんだ。これを良い方に捉えることもできるけれども、よほどポジティブでないと自分へのダメ出しまっしぐらな気がする。辛いことも辛くないことにしてしまったり、辛いと言えなくなったり、死をなによりも恐れたりしなくてはならないので、気合が入っていないと相応の負荷もありそうだ。
生きていることを「大学に在籍していること」のように考えてみると良いように思う。死を卒業と考えると、生きていれば毎日出席していることになるので、ちゃんと卒業できる。ハードモードの人は良い成績で卒業したい人。イージーモードの人は卒業のみをゴールとする人。どちらにせよ結局同じように卒業したら「人生大学卒」になる。そして卒業時に問われるのが単位数でも成績の良し悪しでもなく「入学してよかったかどうか」だけなのだとしたら、どうだろうか。ハードモードは必須と言えるだろうか。
入学した時点で、卒業は決定している。一日で卒業する人もいれば、長い人は100年以上かけて卒業する。生まれればわれらのDNAはせっせと死に向かうので、かすり傷どころか生まれた事自体が致命傷だ。そう考えてみると、在学中は悲しんでいても楽しんでいても卒業はできるので、ならばできるだけ楽しんでいる方が楽ではある。これがイージーモードの考え方だ。
われらの多くが、もしも「入学してよかったと感じるかどうか」のみが卒論に指定されている大学に入学したら、できるだけ楽しんで楽して、「入学してよかった~」と思えることを集めて、卒論のネタにしたいと思うのではないだろうか。この場合、長寿がなぜめでたいかというと、まず卒論のネタを得る機会が多いからだと言えると思う。だから命の長さに優劣はなく、どんな長さでも卒業できたのだとわたしは思う。短い人は、短い間でのネタを持っているのがすごいし、長い人は長い間でのネタを持っているのがすごい。
もしも人生についてそう考えたとしたら、わたしは
◯転生したら地球人だった件
◯イージーモードの発見がすべてを塗り替えた
◯女をやってみたら驚愕
◯日本人体験が貴重すぎた
◯悲しみ、寂しさ、切なさなどの奇跡のアンビリバボー人間体験
などなどの、生きているだけで達成されていることを卒論のネタにすればいいと思っている。それをいかに奇跡だったと説明できるかに重点を置けばいいと思う。なぜなら、その説明を聴くのもまた自分自身だからである。自分が聴きたい話ができたら、いちばんなのではないかな。
今日もこうして大学のキャンパスにいる。今日も出席、一歩卒業に近づいた。「死ぬこと”以内”ぜんぶネタ」と考えてみるのもいいですね。
というわけで今日は、人生を意外と消極的に見ていますがこれも楽ですよ。というわたしの好きな人生観のアイデアのシェアでございました。どなたかの自由度アップの参考になりますように。
それではまた、明日ね。
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