地面に足をつけることと人間
あなたは
生まれて数ヶ月、
ダッコされている赤ちゃんを芝生などに降ろそうとすると、自分から足を畳んで
なるべく地面に足をつけないようにする
ことを知っていますか。なぜかはわかっていないのですが。
地球に来ること自体と来た自分の意志との間に何か
矛盾
でもあるのでしょうか?
赤ちゃんの頃のことは覚えていません。しかしわたしは物心ついてから一度、この地面さえ踏んではいけないと感じたことがあります。物心と言ってももう大人?で、そのような物心がちゃんとついたのがすごく遅かったのですが。
当時はあまりにも生き方が破滅的で、生きる=しぬ!みたいな思い込みと重たさを持っていて、いろいろあって…まあ立ち止まりました。そのしばらく後のことです。この、
足元に見える地面さえ
わたしは踏んではいけないと思うまでに落ち込みました。
落ち込みすぎていて、いろんなことを思いました。そのうちの一つでしかありませんが、例えば、蚊も、ゴキブリも、◯してはいけないとなっていました。
今は違います。今は蚊もゴキブリも、確かに自分の何かを表しているかもしれない
がしかし
だからといって受け入れることはないとなっています。つまりもう
切り分けた
ということです。害というのは害なのです。個人的にはですけどね!
他にもいろんなことを思い、整理したと思えばまた混乱し、整理し直し、諦めたり、落ち着いたりしてきたところです。
まだ途中です。
そして、ついこの前のある日、赤ちゃんが地面に足をつけたがらない動画を目にしました。
待て待て
わたしはそれ、いくつのときにやっとなった!?となりましたね。
赤ちゃんの頃も足を畳んだのかもしれませんけどね。
もしかしたら地球は、多分なにか
自分ではない
もので、元々切り分けられていて当然なのかもしれません。
この場所で、自分の夢をどうこうするという事さえ、元から勝手なことなのかもしれません。
叶ってると思っているのであれば、それはそこまでの願いだから、
こじんまり収まる
のであって、ほんとうの願いなどは叶わないのが当然なのかもしれません。これを欲望とか成長とか広がりと呼んでいるのかもしれません。
しかもそのほんとうの願いなんて言う物自体自分には
見えない
ようになっているのかもしれません。
もしくは、忘れていくのかもしれません。忘れさせていくのかな…。ほんとなら、思い出させていきたいけどな。わたしなら。
なお、
地球の願い
なら、叶えられるかもしれません。
それはけっこう簡単そうです。
ここに居るなら居るで、せめて地球とは大切にデリケートに接することくらい。それは
他人にもできそう
ですね。
コントロールなんてできるはずも、していいはずもなかったんですね。
そうなるとこの今の社会いろいろ考えることがあります。
でもそんなほんとはタブーなことをしてここまでやってきたので、いろんなことが今起きてるのかもしれません。
ほんとの欲望
はなんだったのか、最後には向き合うことになりそうです。
どんなごまかしも効かなさそうです。
自分のほんとの意志と、そのうえでここに来たということの矛盾と向き合う日は近そうです。ほんとはわかっていたのかもしれないし、気づくために来たのかもしれないし、なにかそういう意志が自分ではなくただこの世に存在することを感知するために来たのかもしれないし、それが誰か見つけたがるのかもしれないし、それを見誤らないか不安がっていたり、知ったからどうするのと思っていたりするかもしれません。自分のものであるならその矛盾を知ったあとどうするかは自分で切り分けるかを決められるのかもしれないし、矛盾ではなくただ本来の自分だったからその通りにしかならないのかもしれない。
誰かの矛盾した嘘の意志なら止められる?止められない?がんばる?のかもしれない。
このどこに自分がいるか、はっきりとはわかりません。
最後に、こういう世界のことを見てください。