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陽だまりの猫_la chatte au soleil

 彼女は優しかったので、
 ずっと傍にいた。
 
 彼女は愛しかったので、
 ずっと傍にいた。
 
 彼女は狂おしかったので、
 ずっと傍にいた。
 
 雨の日も、風の日も、
 雪の日も、晴の日も。
 
 陽だまりの中、彼女は眠り、
 移ろい、視線を上げる。
 
 窓の外は今日も変わらない。
 彼女の名はニーナ。
 時空の彼方にいる。

Mademoiselle Nina
ニーナさん


 彼女の朝は早い。
 定刻になると一緒に寝ていた布団から出て、
 その男の胸の上にデーンと座る。
 香箱座りだ。
 お尻を顔の方に向けて、
 尻尾でスワイプする。
 2・3回のスワイプで、
 男は目を覚ます。
 彼女は満足げに鳴き、
 朝食を要求する。
 この朝のルーティーンは、
 休日でさえ守られる。
 神聖な儀式だ。
 
 

Je veux un petit déjeuner!
朝食をちょうだい!


 彼女はグルメだ。
 階下に降り、
 冷蔵庫の前で待つ。
 男が扉を開けけると、
 昨夜茹でた鳥のささ身を取り出し、
 レンジで数秒温めて、
 手で千切って、
 小分けして皿に盛る。
 マドモアゼルだけに許された贅沢な朝だ。
 男は薬缶で湯を沸かし、
 朝からカップ麺をすする。
 彼女が幸福であれさえすればよいのだ。
 
 

Bon appétit!
さぁ、いただきましょ!

 優雅な朝食後、
 彼女はブラッシングを受ける。
 専用の櫛で長毛を整えて行く。
 抜け毛が一玉できる日もある。
 一通り終わると、
 彼女は毛繕いする。
 男の手が伸びる。
 彼女は愛されるため生まれた。
 彼女を甘やかし、甘やかし、甘やかす。
 猫は人類が経験している病だ。
 宿痾だ。
 決して癒される事はない。
 
 

Je n'ai pas mal.
苦しくないわ


 彼女は眠っている。
 男は『形而上学』Z巻を開き、
 机の片隅で丸くなっている彼女に触れながら、
 ノートに古典ギリシャ語を写経する。
 リッデル&スコットのレキシコンも横にある。
 
 一説よると、
 猫とは寝る子、
 寝るという言葉に由来する。
 言葉の全ては動詞が先か名詞が先か。
 彼女は未だ眠っている。
 
 

Je dors.
寝てるの


 彼女は目を覚ました。
 あくびをする。
 机から降りる。
 見上げながら、
 おもちゃを所望する。
 運動の時間だ。
 部屋中を駆け回る。
 大運動会だ。
 でもすぐに終わる。
 彼女は熱しやすく冷めやすい。
 だが論文の邪魔をする。
 私を見てと、
 ドーンと胴体で視界とノートを遮る。
 男は諦めてコーヒーブレイクした。
 
 

Je suis mignonne?
私可愛い?

 論文が書けなくなったので、
 André Gideの『La Porte étroite』を開いて読む。
 彼女も近づいて本を覗き込む。
 そして振り向く。
 アリサとジェロームのお話より、
 私を見てよ。
 ダメだ。
 可愛すぎる。
 マドモアゼルの誘惑に負けて、
 彼女を愛してしまう。
 こうして日は暮れる。
 
 

Bonjour Tristesse?
かなしみよこんにちわ?


 夕方になると、
 猫を抱いて、
 ネットの動画を眺める。
 猫動画も観るが、
 彼女はあまり反応しない。
 他の猫にあまり興味がないのだ。
 興味があるのは人間だけで、
 自分の事を、
 猫だと思っていないかもしれない。
 時々、
 何かに嫌がる反応とか、
 人間の女性と全く同じリアクションをする。
 とても可笑しい。
 
 

Le monde est en paix.
世はなべて事もなし


 
 夜はディナータイムだ。
 洋猫なので、
 ビーフを食す。
 魚ではない。
 牛だ。
 牛を食う猫なのだ。
 「にゃー!」
 猫缶だが、
 少し温めてから出す。
 冷たいままだと食べない。
 なんて贅沢なニャンコだ。
 彼女が満足そうに食べるのを見ながら、
 男は袋ラーメンを茹でる。
 エンゲル係数的には、
 彼女の方が高い。
 
 

Je mange du boeuf.
私はビーフを食べるのよ。

 夜、
 就寝の時間になると、
 彼女は布団の上で、
 香箱を作って待っていた。
 冬であれば、
 いつも同じ布団に入って眠る。
 夏であれば、
 布団に入らず、
 枕の近くで眠る。
 彼女は一瞬で眠るが、
 男も一瞬で眠る。
 快眠だ。
 猫と寝る夜は夢見心地がいい。
 ストレスも大幅に軽減される。
 猫は最大の睡眠導入剤だ。
 
 

Bonne nuit
おやすみなさい

 夜夢を見た。
 彼女がいた。
 ニーナだ。
 可愛い。
 いつものように、
 一声鳴くと、
 何処ともなく立ち去って行く。
 男は彼女の後ろ姿を追うが、
 届かない。
 光の玉となって消える。
 20年ぶり、
 束の間の再会だったが、
 彼女は変わらず、
 傍にいてくれた。
 彼女は、
 優しかったし、
 愛しかったし、
 狂おしかった。

Á Dieu
さよなら


 
 ふと懐かしい錫の音を聞いたような気がした。
 朝、
 目覚めると、
 いつもの部屋だった。
 昔の部屋ではない。
 ぼんやりした頭で、
 何となく考える。
 彼女は幸せだっただろうか?
 アレから猫と暮らしていない。
 アレから25年経ったけど、
 彼女の記憶は鮮明だった。
 マドモアゼル・ニーナ。
 陽だまりの猫だ。

La chatte au soleil
陽だまりの猫

 Merci Nina.
 Grace à toi, j'étais heureux.
 Peut-être que je peux encore être heureux.
 Tu as coloré ma vie. Nina.
                                                          la fin


 
 


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