玄奘、長安に帰る
洛水の河岸に、長蛇の列が出来、民衆は玄奘を一目見ようと集まった。
天竺から経典を携えて三蔵法師が帰った。噂は千里奔る。洛陽は沸いた。
「……うむ。長旅、ご苦労だった」
645年2月1日、儀鸞殿(ぎらんでん)で、太宗に帰還の挨拶をした。
18年前、旅立ちの時は出国を禁じられたが、帰って来たら大歓迎された。
敦煌から予め先に、使いの者を出して、太宗に入国の許可を取った。
すぐに許可され、太宗は洛陽で、高句麗征伐を準備しながら待っていた。
国際情勢、特に西域の情報を欲していた。高句麗の後は西域に侵攻か。
だが玄奘としては、どうしても確認しておきたい事があった。
「どうして、高昌(トルファン)を滅ぼされたのですか?」
「……戦略的に重要だからだ」
太宗は、西域に版図を広げる計画について語った。大唐の夢だ。
「いや、そういう事ではなくて、あの国は仏教国です」
玉座から見下ろす太宗の目は、冷たかったかも知れない。
「……民衆には一切手を付けていない。王族だけ捕らえた」
それは結果論だ。抵抗すれば、戦になっていた筈だ。
「……戦闘らしい戦闘も起きていない。戦ったのは一部の者だけだ」
仏教徒は、穏やかなので、戦いを好まない。だから戦わず、軍門に降る。
「それを聞いて、安心しました」
玄奘としては、引き下がらざるを得ない。亡国の公主の顔が過る。
「……それよりも、還俗(げんぞく)して、朕の右腕にならぬか?」
思わぬ事を言われた。一瞬、魏徴の顔が過った。だが彼はもういない。
「……そなたの事を高く買っている。高句麗遠征に同行せよ」
「申し訳ございません。経典を翻訳する大事業が控えております」
1,000巻を超えるお経を持ち帰った。大乗経が殆どだ。玄奘は伏して願う。
太宗は沈黙した。考えている。玄奘の旅の目的は理解していた。
「……それでは、その代わりに、旅の詳細な報告書を上げよ」
玄奘は顔を上げた。後にこれが『大唐西域記』の元になる。原本だ。
「……西域を中心に、なるべく詳しい情報が欲しい」
それは軍事情報を求めているのか?だが玄奘は軍人ではない。
玄奘は考えた。この情報を基に唐は侵攻する。それは間違いない。
「分かりました……」
そう言わざるを得なかった。断る道はない。だが交換条件を出す。
「その代わり、経典の翻訳事業を支援して頂けませんでしょうか?」
取引だ。なるべく多くのお経を訳さないといけない。時間が惜しい。
玄奘は洛陽の浄土寺を訪れた。懐かしい。
ここは郷里の父母の家を出て、最初に登ったお寺だ。
10歳の時、父が死に、兄を訪ねて、寺の小僧(童行)として入った。
俗名は陳褘と言い、11歳で出家して法名を長捷(ちょうしょう)とした。
すでに経典は判読できると、周りの大人たちは認めていた。
幼少の頃から、実家で『孝経』(こうきょう)を何度も読んでいた。
他にも儒教の経書(けいしょ)を沢山、読んでいた。全て父から学んだ。
子供なのに遊ばない子だった。何かに憑かれたかのように書を読む。
他の子どもが外で遊んでいる時も、寸暇を惜しんで読書した。
10歳で寺の小僧となったが早く出家したかった。とにかく修行がしたい。
折しも、隋の煬帝が、27名の僧を度すとして布告を出していた。公募だ。
無論、年齢制限がある。11歳の寺の小僧では、役所の門さえ潜れない。
それでもあきらめきれない少年は、役所の前をうろうろしていた。
役人に見つかり、なぜそんな早く出家したいのか尋ねられ陳褘は答えた。
「遠くは如来(にょらい)の遺法(いほう)をつぎ――」
その童の瞳は、遠く無限の彼方に向けられていたかも知れない。
「――近くはその遺法を輝かしたいのです」
隋の役人、鄭善果は、得難い人物だと認め、特例で出家を認めた。
早速、浄土寺で景法師が講じる『涅槃経』を、夢中になって聞いた。
釈尊の入滅は、滅なのか、不滅なのか、小乗と大乗で解釈が分かれた。
そしてある時、鳩摩羅什が訳した『法華経』や『維摩経』を読み始めた。
洛陽の浄土寺には、鳩摩羅什が西域から運んだ仏像があった。
この出会いは、玄奘にとって、運命的だった。生涯の目標が決まった。
いつか鳩摩羅什を超える翻訳を作る。天竺に行って、原典を読みたい。
玄奘は微笑んだ。今この手に原典がある。あと少しだ。あと少しで届く。
寺の僧に、兄の行方を聞いたが、分からなかった。姉はいるようだった。
玄奘は幼い頃、5歳で母を失っている。もう覚えている事は少ない。
だが一言だけ、覚えている言葉があった。「愛に生きなさい」と。
なぜ母がそんな事を言ったのか、その理由はよく覚えていない。
ただ家には、景教の聖典の写本があった。当時、流行っていた。
母は景教を信じていたのかも知れない。ロザリオも見た。
そうだとしたら、父は儒教で、母は景教、子は仏教と面白い。
この時代、国際色がとても豊かで、特に長安は、極彩色の都だった。
儒教、道教、仏教、祆教、景教、摩尼教、そして回教の七つが揃った。
これは西のエルサレムの比ではない。東の聖都は間違いなく長安だった。
この時代、実は空海も長安で景教に接触し聖書を日本に持ち帰っている。
長安という都は、数多の世界に通じる時代の扉の一つだった。
だから別の世界線から、時の旅人さえ訪れる。摩訶不思議の都だ。
玄奘は旅の途中で、女の童から、そういう話を幾つも聞いている。
実はこの後、長安で何回か事件に巻き込まれた。霊探偵ごっこだ。
だが玄奘は、巨大翻訳事業を構想しており、それどころではない。
645年3月1日、長安の弘福寺に移った。玄奘、長安に帰るだ。
同年6月から、貝葉のサンスクリット語経典を手に取って漢訳を始めた。
18年の旅の後19年の翻訳事業だ。これから本番と言える。内訳はこうだ。
証義(しょうぎ)に、12名の僧が集まった。内容を検証する係だ。
綴文(ていぶん)に、9名の僧が集まった。文体を統一する係だ。
筆受(ひつじゅ)、口述筆記、ディクテにも、多数の僧が集まる。
書手(しょしゅ)、は、書き散らされたディクテなどを清書する係だ。
これは別の寺に外注した。ITで言う処のニアショアという奴だ。
ガベルスベルガー式速記術もかくやという世界だが、異人が一人いた。
河童型宇宙人、沙悟浄だ。僧に姿を変えて、翻訳を手伝うと申し出た。
玄奘にとっては、有り難い話だった。旅の時から重宝している。
この河童型宇宙人は、言語マニアだった。能力的に特化している。
最終的には、玄奘の右腕とも言える存在になった。名を胡瓜和尚と言う。
まず玄奘が、貝葉梵文を音読すると、胡瓜和尚がより流暢に復唱する。
そして玄奘が口頭で漢文に訳して読み上げる。筆受が素早く筆を動かす。
胡瓜和尚が聞き取った漢文を、そのままもう一度、復唱する。女房役だ。
このバッテリーは、19年間、試合終了まで、言葉の球を投げ合った。
玄奘が訳した経典は76部1347巻、文字数は1,100万を超える。膨大だ。
鳩摩羅什の漢訳を旧訳(くやく)と言い玄奘を新訳(しんやく)と言う。
これは玄奘の意気込みと、鳩摩羅什に対する勝利宣言とも言えた。
質、量、共に旧訳(くやく)を上回っていると、玄奘は自負していた。
だが後世の仏教国、日本では、新約は参考に回され、旧訳が中心だった。
一体何がいけなかったのだろうか?これは後に明らかになってくる。
649年5月27日、太宗が崩御した。玄奘48歳の時だ。
すでに慈恩寺に拠点を移して久しいが、4年で皇帝の後ろ盾を失った。
この後、数年間は、宮廷と距離を取ったが、翻訳事業は継続された。
この間に、宮廷では、恐るべき暗闘が繰り広げられていた。
則天武后の登極(とうきょく)である。中国史上唯一の女帝である。
残虐さで有名だ。杖百叩き、四肢切断、酒甕に漬けて殺された女がいる。
自らが産んだ赤子を、謀略のために殺して、なすりつけられた女もいる。
とにもかくにも、常識を超えた悪辣さで、玄奘も噂を聞いて困っていた。
後ろ盾として皇帝の力は必要だ。事業を認めてもらわないといけない。
その日、玄奘は非公式に、則天武后に呼ばれた。
「……そなたが玄奘か?」
簾の向こう側に、香水と共に女の声がした。恐ろしい。世界三大悪女だ。
「拙僧が玄奘でございます」
非公式の場であったが、玄奘は平伏した。
「……わらわはそなたに内密に頼みたい事がある」
「なんなりと」
玄奘は顔を伏せながら、答えた。事前に話は聞いている。
「……出産を控えている。無事に産めるように祈祷をしてくれるか?」
「承知いたしました」
一瞬、視界が真っ赤に染まった。簾の向こうに怨念が渦巻いている。
「……そなたのような高僧であれば、霊験あらたかであろう」
則天武后は喜んでいるようだった。玄奘はチャンスを掴んだ。
「お願いしたい儀がございます」
「……そうか?何なりと申してみよ」
「事業の支援を継続して頂きたく存じます」
皇帝が代わり、宮廷から資金援助が途絶えては、困る。
「……それは安心するがよい。むしろ困っている事はないか?」
則天武后は優しく声を掛けた。玄奘は寒気がした。恐ろしい女性だ。
「特段、困った事はございませんが、何か、お願いするかもしれません」
玄奘は心の中で、一計を案じていた。それは死後、実現する。
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺053
『玄奘、法華経を翻訳す』 玄奘の旅 19/20話
『玄奘、西天取経の旅に出る』 玄奘の旅 1/20話