見出し画像

『月の満ち欠け』ノート

佐藤正午作
岩波文庫刊
 
 先月、昼休みに立ち寄った書店でこの本を見つけた。一見して岩波文庫の装丁であるのに、背表紙の書名と作者名の下に「岩波文庫的」と書いてあったから目についた。「なんだ?これは」と思いながら手に取ると、表紙にも「岩波文庫的」と書いてある。佐藤正午の作品を読むのは初めてである。
 本に挟んであった栞を読んでその理由がわかった。
 著者によれば、単行本刊行からまだ2年半しか経っていない自分の小説を文庫本に入れろと岩波の編集者に言ったらしい。すると編集者からは「無理です」との答え。岩波文庫がダメなら岩波文庫風の装丁で作れないかという案が出て、最終的に「岩波文庫的」としたらしい。岩波書店らしくない〝遊びの精神〟がこんなことになったようだ。この経緯からすると、この作品以外で「岩波文庫的」というのはまだないのだろう。これからどれくらい出てくるのか、それともこの一冊で打ち止めなのかはまだわからない。この作品は第157回直木賞(2017年上半期)を受賞している。
 
 平明な文章で、読み始めてすぐに物語の中に引き込まれた。引力が強い作品だ。しかし読み始めると、登場人物の関係性と時制が混乱してきて、読みながら、中扉の見開きにボールペンで登場人物の関係性を書き込みながら読んだ。

 読み進めていく中で、昔読んだ『前世を記憶する子どもたち』(イアン・スティーヴンソン著/日本教文社刊)という本を思い出した。その子どもが知る由もない時代や場所や人物の事などを語り出すといった事例を世界中から集めて取材してまとめた研究書である。
 
 『月の満ち欠け』の登場人物は、小山内堅(つよし)と妻の梢と一人娘の〈瑠璃〉。正木竜之介と妻の〈瑠璃〉。女優の緑坂ゆいとその娘の〈るり〉。小沼工務店を経営する2代目社長夫妻とその娘の〈希美(のぞみ)〉。この希美が生まれる前に母親が〝予告夢〟を見て、お腹の中の子が自分の名前を〈瑠璃〉にしてほしいと頼んだという。
そして三角哲彦(あきひこ)の学生時代のバイト先での正木竜之介の妻である〈瑠璃〉との出会いと、思わぬ〈瑠璃〉の死から物語が始まる。
 
 これで分かるように〈瑠璃〉という名前を持つあるいはそう名付けてもらいたいと切望する女性の〝生まれ変わり〟――月のように死んで、生まれ変わる。それを〝月の満ち欠け〟になぞらえて書名としている――が織りなすおよそ30数年にわたる〝愛の執念〟の物語として読んだ。それも単純に時が一方向に流れるのではなく、現在から過去に戻り、また時代が移り、現在に戻るという複雑な構成になっており、作者の構成力が際立っている。一見すると荒唐無稽なテーマだが、登場人物の心理の襞まで書き込まれており、リアリティーがあって破綻がない。
 
 時系列でいうと、正木竜之介の妻の〈瑠璃〉、小山内夫妻の娘の〈瑠璃〉、小沼夫妻の娘の〈希美〉、緑坂ゆいの娘の〈るり〉が〝ひとつの命〟の生まれ変わりの順番だ。その共通の癖はペロッと舌を出すところと、年齢から考えても知っているはずのない歌を口ずさんだりすることだ。また名前の由来となるキーフレーズがある。「瑠璃も玻璃も照らせば光る」だ。
 
 プロローグは東京ステーションホテルでの小山内堅と緑坂ゆいと〈るり〉親娘の面談の場面から始まり、物語の終わり頃に再びその場面に戻る。
 エピローグは小学生の〈るり〉が仕事先に三角哲彦を訪ね、ようやく二人は再び出会うことで物語は完結する。7歳の少女に「瑠璃さん」と静かに呼びかける三角哲彦――「ずっと待ってたんだよ」――。
 
 ここで私が思い出したのは初期仏教経典のひとつである『スッタニパータ』の一節である。
「かれ(ブッダ)のすべての煩悩の汚れは消滅している。かれはもはや再び世に生まれるということがない。」
 煩悩の炎を消し去って涅槃(ニルバーナ)の境地に至った時、その人はもう輪廻転生の流れに戻ることはなく、この世に生まれることはないというのである。
 〈瑠璃〉は輪廻を3回繰り返し、心から愛する三角にようやく会い、その願いを成就した。しかし愛という燃えさかる煩悩には終わりがない。この二人の人生のゴールはどこにあるのであろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?