『死にがいを求めて生きているの』ノート
朝井リョウ著
中央公論新社刊
2年ほど前、本屋の平積みで見つけたとき、タイトルに惹かれ、目次を見て、複数の視点で書かれていることに興味をそそられ、数ページ読んで文体も好きだったので購入した。この作家の本を読むのは初めてだった。
聞いたことがなかったが、〈螺旋プロジェクト〉という企画の8人(大森兄弟となっているので、9人?)の競作の一つだ。
「海族」、「山族」という二つの種族をテーマにした物語を、歴史の流れとともに各作家が描いていくというプロジェクトという事で、他の作品(刊行予定を見ると、いくつか既刊があるようだ)を読んでいないので、このプロジェクトのことはなんとも言えないが、この作品だけで、十分読み応えがあった。
このプロジェクトのコンセプトをみて、手塚治虫の『火の鳥』を思い出した。〈永遠の生命〉を〈火の鳥〉(不死鳥)という存在に託して、古代から遙か未来までを描いた壮大なアニメ作品だが、未完に終わっている。最近どなたか作家がそれを書き継ぐような話を聞いた記憶があるが、余計な事のように思える。
この作品の話に戻るが、6人の視点から、また過去や現在に戻って描かれ、「海山伝説」を軸とした、〈海族と山族の対立〉を描いた物語が一つのモチーフになっている。そういうプロジェクトだから当たり前だが、それだけではなく、〈個〉〈個性〉〈生きがい〉などが問われる現代の風潮に対する批判が底流にあるような気がする。
登場人物の一人である堀北雄介(この人物の視点では書かれていない)は、学校の成績や何か注目を浴びるような運動など、常に他人と競争し、対立することでしか生きている意味を見つけられない人間、いわば常に他人の承認を求めている「生きがい探し症候群」に罹患している若者だ――いま書いていて気が付いたが、この人物の視点で書かれていないことで、逆に堀北雄介が主人公ではないかと思った。書名の『死にがいを求めて生きているの』に当てはまる人物像だからそう感じたのかもしれない。
もう一人は堀北雄介と正反対の生き方をしようとしている南水智也だ。智也は雄介のせいでケガをして、聴覚しか残っていない人物。今の時代に絶滅しかけている生き方の若者像の象徴だろうか。
「生きがい探し症候群」は、ネット社会の象徴とも言える。いま、ネットでホームページやブログ、LINE、Twitter、Facebookなど気軽に発信できるツールがあり、一昔前とも大きく変わり、誰もが自分の意見を発表できる環境にある。
「個人」の価値や「個性」が大事だとされる社会で(そのことに異論はないが)、「何か自分も『何者』かにならなければ価値がないとか、注目を浴びたい、それが自分の生きがいだ」と強迫的に思いこみ、いろんなツールで過激なこと、的外れなこと、本質を理解していない発言、扇動的な発言をしたり、気に入らない考え方や物事を否定するような発言をして、それに反応がある(フォロワーが何万人と自慢する政治家もそうだが)と自分の存在価値が認められた、自分の立ち位置が出来たと勘違いする……加工されたり捏造された映像、都市伝説などを拡散して面白がるのも同じ……など、いまの空虚な風潮に対する批判のように思える。
それは、死ぬ時に、「自分はこういうことをやった」という足跡や自慢を残したいからでしかないのではないかと思う。その意味で、探しているのは「生きがい」ではなく「死にがい」なのかも知れない。(いま、書きながら自分を省みているが……)
もちろん、誰しも他人からの承認欲求があるのは当たり前だろう。飛躍するが、「自分の死」さえも、親兄弟や友人・知人など回りの人によって「その人の死」として認識されるのであって、「自分の死」は自分では認識できない。だから、盛大な葬儀などは、故人の意思を忖度した最大にして最後の承認欲求かも知れない。
「私たちが生きているときには、死はその私たちのもとにはないし、その死がやってきたときは、私たちのほうはこの世にはいない」のである。
ちょっと話が広がりすぎた。
また〈海族と山族の対立〉を別の視点から見ると、宗教間や民族間の対立、人種・言葉の違い、国の体制の違い、さらには歴史観の相違があり、対立や争いが生じている現代世界のことを象徴しているのだろう。
人間社会がある限り、対立することは避けられない。一人の人間同士の理解し合いさえも難しいのに、その集合体間の対立が簡単に解消出来るとは思えない。アメリカと北朝鮮、日本とロシアなどなど、例は枚挙の暇がない。
しかし、いろんな違いはあっても文化や芸術、文学、音楽などでは人種や言葉などあらゆる差違を超えた共通の感覚を持っていることは間違いない。世界中で大ヒットする曲や、評価が定着している古典、絵画などがその例だ。そこに、希望の灯火を見たいと思う。
対立があるから、話し合いで解決できる、理解し合えると短絡的に思うほど楽観的ではないが、対話を通じて相互理解への努力することが大事だとは思う。それには、多様性を尊重する姿勢が必要だ。
作品の中に「目的と手段が逆転」(P220など)という事が出てくる。
数年前のことだが、ある友人と酒を酌み交わしながら言い争いになった。
「まわりから尊敬される人間になるべきで、それを目指し、その様に行動しなければだめだ」という友人に対して、私は、「尊敬される人になりたいなんてこれまでこれっぽっちも思ったことはない。自分の生き方を結果的にまわりの人が評価するだけであって、尊敬されるように行動することなんて出来ないし、それに尊敬されようと思ったこともない」と言い張った。どちらが正しいということではなく、人生観の違いだねということで事を収めた。多様性を尊重すると言いつつ、現実はなかなか難しいことを痛感し、反省とともに苦い思いがいまでも込み上げてくる。
まだいろいろと多面的に読める作品だ。また時間を作ってもう一度、読み返したいと思う。
因みに、作品に出てくる「嬉泉島」は、戦時中、軍隊が毒ガスを製造していた「大久野島」(広島県)がモデルだと推察している。この島には「毒ガス資料館」がいまでもある。