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仕事にしたいんですか、趣味じゃダメなんですか。

今年は手帳のフリーページに書いている日記。久しぶりに開くと前回から一か月も経っていて驚く。心を亡くすと書いて忙しいとはよく言ったもので、諸々の事情から屍のように過ごした初夏だった。もとい、現在進行形。

その間、ぽつり、ぽつりとnoteをやめてしまう人がいた。その中にはこれまでに優しい言葉をかけてもらった方もいて、お声かけしたい…でも無粋かも……とぐずぐずしているうちに日々は過ぎていった。

そう、なんでもかんでも遅い。とにかく遅いのだ。言わないと伝わらないんだよ。わかってる。


仮面おゆうぎ会 を読み始めたのは、最終日。好きな作品がありすぎて藤井風よろしくキリがないから一つだけにスキを付けると決めた。M-1のファイナルジャッジ形式。企画を心から楽しんで盛り上げていたこげちゃ丸さんが王者の座に輝くストーリーが美しかった。お見事なフィナーレ。

この盛り上がりにどこか既視感があり、そういえば一年前の同じ時期に磨け感情解像度が行われていたのだと思い出す。あれからずいぶんといろんなことが起こった。
noteを去る人たちの背中を見て、何も思わないわけではない。でも、最近のあれこれをふまえると、仕方ないよな、が正直な感想。

誰かが去るたびに、自分の身の振り方を考える。


話は逸れるが、編集の仕事をする中で、ライターさんの採用に携わった時期がある。これまでに様々な方とやり取りをしてきた。しかし必ず長期的なお付き合いになるとは限らない。多くの人が「想像と違う」理由でやめてしまう。

数々の経験から、やがてこんなふうに思うようになった。
書く仕事がしたい、という人の多くは、自分が好きなことを書く仕事がしたいのだ、と。

こう表現するとずいぶん主語が大きくて字面がいじわるだけど、自戒でもある。編集側にもライター側になる私は、前者の立場でがっかりするような行動を後者の立場で取らないようにしなければ、と常々危機感を持っている。逆も然り。

ライターはクライアントからの依頼や要望があって、それに応えるのが仕事だ。1本の記事が仕上がる過程にはあれやこれや起こるし、自分の意図とはまったく違う方向性の修正が入るケースも少なくない。この現実に耐えられない人もいる。
媒体によってはトンマナやルールが厳しい。整合する過程で個性が削られる可能性もある。様々なテイストの文章を書き分けられてこそプロなのだろうけど。


だからこそ「書くこと」を仕事にするときは、一呼吸置いたほうがいいと思った。本当に仕事にしたいのか、趣味で書くのではダメなのか。

その道で成功を望んだ途端、苦しくなったり生き甲斐を失ったりする。
趣味を仕事にした途端、「書きたい」が「書かなければならない」になったりする。
私自身も、最近は音楽に関する記事をお仕事で書かせてもらえるようになり、それは夢のように嬉しい一方で、ここでも自分の思うままに書けるわけではない現実と向き合っている。

フリーランスで編集の仕事に戻ってからは、分かりやすくnoteの更新頻度が落ちた。日中ずっと文字を書いたり読んだり削ったりしていると、とても疲れる。その昔、貿易事務をしていたときのほうがたくさん書けていた。

仕事でいっぱい書きまくっているのにプライベートでも手が止まらない、という人だっている。だから、私は仕事と趣味の線引きが下手なのだと思う。境目が曖昧だとずっと仕事感覚になってしまい、リラックスできない。そういう性分なんだろう。


仕事が順調であればあるほど、趣味で書くエネルギーが削られる。書きたいことはお金を生まず、書かなければならないことはお金を生む。そんなシンプルな原理に振り回されている。贅沢か。
だったら仕事を辞めたり変えたりして自分が書きたいものを書けばいい、といった単純な問題ではない。仕事自体は楽しいし、生業としている以上、気持ちと時間のコントロールが求められる話。

仮面おゆうぎ会のような創作性の高い企画に触れるたび、むくむくと湧いて出てくる作りたい欲。すぐ日々の業務に忙殺されてしまうのだけど。

ええ、はい。この状態を「煮え切らない」と呼びます。

仕事にするのと、趣味で続けるのは、どちらが尊いのだろう。
商業的・金銭的な成功に囚われたくはない。でも、趣味で楽しめればいいとも割り切れない。そのあいだ、があるといいのに。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。