向き合えなかったのは無力感

少し前、自分と向き合えないようになってしまっていましたが、気が付かないうちに目を逸らしていたのは、私の真ん中に鎮座していた無力感からだったようです。

君まだ居たんだね、と、呆れてしまうような、同時に少し懐かしいような、そんな気持ちになりました。

自分を弱らせるものを取り除いて元気が出てきたタイミングで、やってきました。やってきたと言うより、ずっと同じ場所に貼り付いていたのでしょう。見る元気がなくて、ずるずる先延ばしにしていただけで。(弱らせるものというのは、最近だと、体質に合わない食べ物や、当てこすってくる整体師など。)

幾つかのきっかけがありました。
その内のひとつは、顔見知り、親子になれるくらい歳下の女の子の写真展に行ったことです。彼女は、自分だけのやり方で伸び伸びと写真を楽しんでいて、ただ好きで楽しくて夢中で枠を乗り越えています。いわば初期衝動の勢いと喜びに溢れていて、見ていると清々しい気持ちになります。上手下手とか常識なんかが入る余地のないエネルギーで、それが何よりの才能だと、本人にも伝えました。素直に、良いな、羨ましいな、と思いました。

それからしばらくして、怖くて踏み出せないあの感覚を、体が思い出していました。
もうすぐ中学校にあがるという春先、絶対に同じ中学に来るなと執拗に暴行、立ち上がれなくなるまで痛めつけられたこと。
やりたいことがあると告げる度に怒鳴られ、暴力と暴言を浴びたこと。
「お前には無理だ、まだわからないのか」
と繰り返し言われながら、何度も足蹴にされ頭を打ちつけられ、それは長時間続きました。
「なんとか言ってみろよ」と言うのを、頭蓋角が鳴る音とともに聞きました。声帯も心も凍りついて、何も言いませんでした。
(なお、上記は全部血縁上の兄です)

悔しい、間違ってる、と思いながらも、体と心の奥の方に、恐怖が刻み込まれていたんだと思います。「心の通りに前に進もうとすると、痛いこと良くないことが起こる」と、記憶してしまっていたのだと思います。その記憶には、諦めも付着していました。

もうなければ良いのにと思っていたし、
今や安全で自立もできていて、あとは地道に進むだけだと思っていたから見逃していた(見逃したかった)というのもあるし、
体がまだ本調子ではなく向き合うだけの体力がなかったというのもあるし、
この年になってなお影響されているのも認めたくなかったのかもしれないし、
複合的な理由がありそうです。
(気付いていないことも、色々ありそうです。)

ともあれ、今回向き合うことができて、確信しました。無力感は私の内側から来ているのではなく、他者から執拗な暴力で植え付けられただけの、他人のものだったのでした。その無力感は、暴行してきたその人間のものなのかもしれません。私のものじゃないと知れば、もう抱えなくても良い。

経験上、記憶の中のネガティブとされる部分を無視していると、弱く軽薄になってしまうことを知っています。
以前怒りと初めて結びついた時の、あの溢れるエネルギーを思い出しました。暗い記憶が戻ってくると、足下から力が湧いてきました。

色々な生き方、克服の仕方がありますが、私はやっぱり、自分の中の影や痛み、激しい怒りや悔しさをまるごと抱いた時に、前へ向かう力強さが持てるようです。

そしてもうひとつ気付いたことは、何より耐えがたいのは、私が私であることを諦めさせようとする力に屈してしまっていたことです。欲しい物をつかもうとした手を力ずくで開かせた虐待者はもういなくて、私はもう非力で行き場のない小さな女の子ではなくて、私はただ、何度でもこの手でつかめばいいんだと、整理できました。あとは体に慣れてもらうのみ。。

ところで、ちょうど最近(というか多分必要で求めて行った)、影についての文献を色々読んでいます。その話はまたいずれ。