(覚書)苦手だった人たち

好きなものや快いものと出逢った時はもちろんですが、嫌だな苦手だなと感じるものと出逢った時にも、自分と向き合えれば色々な気付きがあります。

後者についてそう思えるようになったのは、どんな時でも自分を安全な環境に置いてあげるという気概が身に付いたからだと思っています。
不快ならまず距離を充分置き、それから、必要に応じて、そのことについて考えたり考えなかったりします。

私には、苦手な女性写真家が二人いました。一人はSNSでネタバズから人気になった方。もう一人は、都内にある独立系ギャラリーのメンバーです。双方に共通してるのは、(私から見ると)歪んだ自己愛がとても強く、いわゆる女の情念を強く感じるところです。情緒が不安定そうで、作品にもSNS上でも、それを常に垂れ流しています。中身のよくわからない嘆きや怒りをチラ見せして、オーディエンスに察して欲しそうにします。(女の……とか書くのもどうかと思いましたが、わかりやすいようにあえて書きました。すみません。)なお、その二人は、男性たちに特に人気があります。

以前はその嫌悪感の中身がわからないまま、彼女達の話題が流れてくるたびに、黒いもやもやが心の中に立ち込めたものでした。
今わかるのは、その根底が恐怖に紐づいていたことです。
早い話、母親です。

私の母親は、予測のできないタイミングで激昂して叫んだり、恨みがましさに顔を歪めたり、かと思えば、何も意見を述べず何を考えているかわからない不気味な表情(口元は笑顔、眉間に皺を寄せ苦痛に耐えているような)で察して欲しそうにしていました。

私はそんな、ヒステリーというか(まあこれも差別用語ですね、、)不安定な女性に恐怖を抱いていたんですね。幼少期は逃げ場がないので、仕方ないことです。

(最近ようやく、彼女はただ未熟で情緒的に成長できず訳の分からないまま間違えながらがむしゃらに生きていただけだと理解できました。同時に、恐怖心もなくなりました。)

今でもまあ、その種の幼児性をもった感情を制御できず周囲を巻き込むタイプは苦手ですが、距離を置いたり、えっ何それとゲラゲラ笑ったりできるようになりました。
危機ではないと、認識できたからですね。

そういう負の反応は、場合によりけりですが、試金石となり、長く留まらないようになりました。

話は戻り、男性がその手の女性に(安全圏から)惹かれる理由が、今ではなんとなくわかります。
これはあくまで私の思うことですが、過剰だとしても相手が何を感じてどんな反応をとるのか見えると、興味を持てるか判断できるし、安心できるのだと思います。
逆に言うと、いつまで経っても差し障りのないことだけを口にして、ただうっすら微笑むとかして何を考えているかわからない人、つまり感情が見えない人に、不安を覚えるのだと思います。

人と向き合うことは、リスクを伴います。
リスクを負うには、ダメージを負ってもまた回復して立ち上がれるという自負が必要です。
その自負のないところでは、人はすべて恐怖の対象になってしまいます。
今世で得られるとは思っていませんでしたが、今確かにそれを持てているのを感じます。