もしアレでしたら、読んでってください
こんにちは!
突然で恐縮なのですが、言い訳をさせてください。
「自粛中で、面白い事件が起こらない!」
ボヤきつつ、前回の投稿から、早くも2ヶ月が経過しようとしています。
ビックリです。
そんな怠惰な日々の中、Twitterで見つけたのが、こちら。
岸田奈美さん主催の『キナリ杯』。
恥ずかしながら、岸田さんをフォローし始めたのは最近のことなのですが、岸田さんの文章は面白くって、優しくって、尊いのです。
率直に言って、ファンです。(たぶん)同学年なのですが、尊敬してます。
このキナリ賞に応募すれば、岸田さんに僕の書いたものを読んでもらえるのか〜!すごい!
と、感激しつつも。
おもしろい文章か〜。ただでさえ、書くことないのになぁ。
なんて、悩んで。
でも、せっかくこんな機会があるのに、この期に及んでサボるのは、アレだしなぁ。ということで、ひねり出して書きました。
もしアレでしたら、読んでってください。
"アレでしたら"って、なんぞ
僕がこんなことを言うのもアレなんですが、
会話の中で、意味不明な"アレ"が出てくること、ありませんか?
つい先ほどの文章にしたって、
「アレだしなぁ」って、どれなんでしょう。
「もしアレでしたら」って、なんなんでしょう。
「アレなんですが」って、本当に、なんぞ。
相応しい言い回しがパッと思いつかないのか?
それともなんらかの事情でストレートに言いづらいのか?
なんとなく、クッション言葉的に置いてみたのか?
うん。そのどれか、なのだと思います。
ここでさっきの"アレ"の意味について、答え合わせをさせてください。
-この期に及んでサボるのは、"アレ"だしなぁ。
「怠惰すぎる」「後悔しそう」「流石に、人としてまずい気がする」などといった心情です。
-もし"アレ"でしたら、読んでってください。
お暇でしたら、もしくは、ご興味をお持ち頂けましたら、なんて気持ちです。
-こんなことを言うのも"アレ"なんですが、
これは、本当に、なんなのでしょう。強いて言えば、「自分で書いた言葉にケチをつけるのも変なお話なのですが。」みたいな意味を持った前置きなのだと思います。
どうでしょう?なんとなく伝わってましたか?
伝わっていなければ、ごめんなさい。
(でも、細かいところまで伝わらなくて当然だ、とも思っています。)
"アレ"って、余白
3つの"アレ"に共通しているのは、「字面通りでは全く意味を為さない部分を、読み手の脳内で自動的に補完させている。」ということではないでしょうか。
これって、なかなか便利な働きです。
「怠惰すぎる」「後悔しそう」といった具体的な心情を示さずに「アレだし」に留めておけば、読み手が頭の中で、共感しやすいワードに勝手に変換してくれるかもしれません。
同じく、「お暇でしたら」「ご興味をお持ち頂けましたら」なんて書かずに「アレでしたら」などと言っておけば、お暇な人も、ご興味がおありな人も、それ以外の"アレ"な人も、いわば自分事に感じて、文章を読み進めてくれるのかもしれません。
「こんなことを言うのはアレなんですが」に至っては、こう伝わってほしい!という意図や、こう伝わるかな?といった企ては、一切ありません。
それでもなんとなく、「こんなことを言うのはアレなんですが」は、多少へりくだった、クッション言葉の役割を、そこそこ果たしていませんか?
「聞き手にとって違和感のない言葉に、勝手に変換される便利ワード」
言い換えれば、「意味のある余白を作る言葉」。
それが、"アレ"なのだと思います。
"アレ"が作る余白にどんな意味を持たせるのかは、聞き手次第です。そしてそれは、場合によっては、大きな誤解をされる可能性があるということです。
便利ワードかと思いきや、危険すぎるぞ。
"アレでしたら"。
誰だって、できれば、誤解なんてされたくない。
『じゃあ、"アレ"なんかじゃなくて、もっと具体的に言えば良いじゃない。
「後悔しそう」とか「ご興味をお持ち頂けましたら」とか、思っていることを正確に言えば、誤解される心配はないでしょう。』
と言われればそれまでなのですが、せっかくなのでもう少し、"アレ"について考えてみたいと思います。
余白って、バンドT
"アレでしたら"は、どんな状況であれば誤解なく読み取ってもらえるのでしょうか。
それは、前提となる①キャラクターと②背景が聞き手に正しく認識されている時なのだと思います。
「(こんなキャラである)君がこの状況でそういう言い回しをするならば、きっと、こんな真意があるんだよね」
ここまで読み取ってもらえるのであれば、"アレ"が誤解を生む可能性はとても低くなるはずです。
また、こういったコミュニケーションを取れる間柄(もしくは状況)において、"意味のある余白を作ること"は、単なるおサボり以上の働きをします。
それは、余白に同じ意味を持たせる者同士の一体感を育むことです。
「誰にでも伝わるメッセージではないだろうけど、僕には通じたよ!」という、感覚共有の快感を生み出すこと。
そしてこの快感は「このメッセージを共有できる我々は、仲間だ!」といった、ある種の一体感作り出すのではないでしょうか。
バンドTって、内輪ネタ
また、言葉以上のことが通じる快感は、"アレでしたら"という言い回しに限られたことではなく、日常的な会話の中でも、知らず知らずに生まれているはずです。
例えば、
母親「美味しい!」
息子「じゃあ、辛くはないんだ」
女A「カッコいい!」
女B「どこにダンディな人がいるの?」
といった会話は、「母親は辛いものが苦手」「女Aは竹野内豊さんが大好き」といった共通認識があって、初めて成り立ちます。
そしてこんな会話を通して、母と息子は、女AとBは、「我々は、お互いのことをよく理解している」という認識を深め、その関係性に愛着を持つのではないでしょうか。
美味しい!カッコいい!は、文中に余白をつくり出すわけではありませんが、その単語自体に、余白を含んでいます。
「美味しい」には甘い、旨味が強い、食感がサクサク、といった解釈が入り込む余地がありますし、「カッコいい」は人によって、シブい、雰囲気がいい、背が高い、などとも解釈できます。
余白を含んだ文章や言葉がどう解釈されるかは、聞き手次第です。
「美味しい」ならば「辛くない」ということ 、「カッコいい!」が「ダンディ」とほぼ同じ意味を持っているということを、どうすれば、赤の他人が読み取れるのでしょうか。
やっぱり、よほど親しい人以外に余白に正確に解釈してもらうのは、難しいことなのかもしれません。
"アレ"と、キャラと、聞き手と、余白
「もしアレでしたら、読んでってください。」
はじめにこんなお願いをした僕は、どんな人に見えたでしょうか。
ここまで長々と読んで頂いて、いま、僕はどんな人に見えていますか。
話し手のキャラクターが余白の意味を決め、余白に見出された意味が、話し手のキャラクターを、聞き手の頭の中に作り上げます。
親しい間柄や、話し手が好意的な印象を持たれている状態、いわば、話し手が自分のキャラクターをコントロールできる状態では、"意味のある余白"は、ニュアンスを伝えたり、話し手と聞き手の一体感を高めたりと、僕たちのコミュニケーションに、ささやかな力添えをしてくれます。
一方、互いをよく知らない時、不特定多数の人々に語りかける時には、自分のキャラクターは、聞き手の中で勝手に育ってしまいます。
その"勝手に育った自分"は、ものすごく嫌なヤツかもしれませんし、攻撃的で、誰かを傷つけるヤツなのかもしれません。
仲間うちでは、ときに余白のある言葉づかいをするのもいいでしょう。
「これが通じる僕たちは、感覚を共有できる仲間だ」という程よい仲間意識や安心感は、誰かの居場所を作り、誰かの気持ちの置き所になるかもしれません。
一方、互いをよく知らない間柄での会話や、不特定多数の人に何かを正しく伝えたいときには、できるだけ、余白のない、具体的な言葉を使うのが賢明な気がします。
「自分の想いが正しく伝わってほしい」と願うのであれば、「この言葉には余白がないか?」「自分が考える以外の解釈がなされる可能性がないか?」なんてことを考えてから、口に出すのが良いのかもしれません。
余白の解釈のすれ違いによって、不要に誰かを傷つけたり、自分が傷つくことがないように。
言い訳
本当は、僕がここで書きたかったのは、余白たっぷりの、それでいて、顔も知らない誰かに向けた文章だったんです。
母親と息子や、女AとBのように、「わかってくれた!」「通じてるよ!」って、顔も知らない誰かとも、言葉を通じた絆を感じられる、そんな文章が、書きたかったんです。
でも、顔も知らない誰かを意識すればするほど、うまく書けなかった。
これでは、うまく伝わらない気がする......
ここはちょっと、誤解されそうだ......
そんな考えが邪魔をして、大好きなはずの"意味のある余白"を、自分の手で塗りつぶしていくことになりました。
そうして、書きたいものを書けなくなった。
なので今回は、「書けない言い訳」を、そのまま読んでもらうことにしました。
長々と、言い訳にお付き合い頂いた方々、そして、機会をくださった岸田さん、ありがとうございました!
次に書く文章は、もっと抜け抜けで、余白たっぷりな、行間を楽しめる文章だといいな。
そんな文章を握りしめて、またいつか、お会いできると嬉しいです。
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