シンエヴァ評:喪失と回復と、いつかの決別
結局、シン・エヴァンゲリオンは映画館で3回観た。1回目に鑑賞したときは後半部に感情移入したのだけれども、3回目にもなると、前半部におけるシンジの心の動きこそこの物語の真髄なのではないかと思えてきた。私の知る限り、あれほど丁寧に喪失と回復とそこから決別することを描いた作品はないように思う。喪失とサバイブは私の人生において大切なキーワードの一つで卒論のテーマもそれであった。人は大きな喪失体験をしたときにどうやって生き延びるのか。そして、そこからいかに<わたし>を獲得するのか。今回は「喪失、回復、決別」という3つのキーワードを中心としてシンエヴァから得たものを語ってみたい。
とはいえ、大きな喪失と回復についてはすでに多くの研究がなされている。なのでここでは私や私の周囲の人々の経験をもとにして、簡単な記述だけを行っておこう。
思うに回復には二段階があるように思われる。第一に「身体の回復」である。唐突に安全性が損なわれる経験をしたり、あまりにも急な生活の変化を経験すると、身体のセンサーがこわれる感じがする。水を飲むのも眠るのもきつい。時々思い出したように吐いてみたり、異様に浅い眠りに落ちてみたりするものの、基本的に自分の身体が自分のコントロール下にない。長期的に安全性を欠く場所にいるときは、これほど急激な反応ではないものの、同じく身体のセンサーがあまり機能していない感じがある。五感が鈍くなるのか味や痛みがよく分からない。そして、何より自分が安全性を欠いている場所にいることが分からない。この段階では失われた身体機能を回復させることが必要である。ご飯が食べられるだとか、美味しいと感じるだとか、そして自分がきつい経験をしたことがわかるだとか、そういう身体的な感覚の次元を回復していくのである。
第二に「精神の回復」である。身体が回復してくると急激に頭が回り始める。ひどいときには何もしていないのにずっと涙が止まらなかったり、強烈な希死念慮に襲われることがあるかもしれない。フラッシュバックとの長く苦しい戦いの始まりかもしれない。自分の気持ちをどれだけコントロール下に取り戻せるのかが、ここでの回復にあたる。人によっていろんなことがあるだろうが、とりあえず現代社会でそこそこ生きていくことができれば大丈夫だ。
多くの医療や心理学などは「喪失と回復」というテーマでここまでを扱っているように思う。思うにこの段階まではルサンチマンで割と生きていける。誰かや世の中を強烈に憎んで見返してやる気持ちを持てれば、むしろ普通の人以上に頑張れるのだ。だが、途方にくれるのはここからなのだ。
過去において大切だったものや、どうしようもなく欲しかったものが欠けて、自分が不完全で欠如した存在になってしまったような気がする。早くここから抜け出したいのに、喪失感情を手放すこともできない。長く続く生き延びるための戦いをしつづけている間に、気がつけば<わたし>を失ってしまったからだ。生きのびた後にもまだ生は続くのに<わたし>がどうしたいのかが見つからない。しかし同時に、世の中を恨むことが無意味に思え、あれほど心の中を占めていた喪失を手放さなくてはならないことにも気づいている。以前とは自分は違ってしまった、誰かを恨むことで自分を駆動することもできなくなった。私はどうやって喪失を失えば良いのか。
アヤナミがいなくなったあとシンジが土の匂いに気づく場面がある。あの場面は本当に美しいと思う。そして、この物語の核である。私たちはあるとき突然、失ってしまったと思っていたもののなかに、いくらかの幸福がそのままの形で残っていることに気づくだろう。圧倒的な悲しい記憶を打ち消すように幸福が再生される。この幸福こそが喪失の最後に見つかるものであり、喪失を失う契機となるものである。
喪失の最後に認めなくてはならないのは、どこかのタイミングで自分も誰かに気に掛けられていたこと、しかしそれはそのままの形でははっきりと失われてしまったことである。欠けたものをそのまま取り返そうとする試みはいつでも失敗に終わってしまう。それは、過ぎた時間と無くなった空間のなかでのみ生起するものであった。それらに紐づけられていない試みは、私の理想的な欠如でしかありえないのだ。そのことを認めさせるのが幸福な記憶である。その後ヴンダーに乗ることを表明する場面を除いて、長くシンジは沈黙し続ける。ここにどんな意味があるのだろう。シンジの内面は描かれないため推測するしかないが、喪失から「決別」することを決めたのではないか。
喪失とは、過ぎ去った時間と無くなった空間におけるモノを想い、未来においてありえたはずの選択肢に恋い焦がれることであるかもしれない。しかしながら、それらの選択肢がいまや失われたこと、それでも時間と空間は継続し続け、私がそこに存在することを認めるのであれば、いまや私は喪失と決別することができるだろう。わたしはこのようなやり方で自分を作り上げることを、モナ・ワソーから学んで「希望の埋葬」と呼んでいる。愛情が欲しかったこと、共に生きたかったこと、何かになりたかったこと、そうした希望をあきらめたとき、そういうものにはなり得なかった<わたし>がこの時間と空間に位置を占めていることを認識できるようになる。
この段階において喪失は違った形をとりはじめる。何かがなくなってしまったことがどうしようもなく悲しい。だが、このような欠如こそが<わたし>を作るのだ。この世に存在した多くの動物は絶滅して現在の世界が出来上がっており、この世に存在した多くの芸術は絶滅して現在の文化が作られている。何かが失われたこと、そしてそれらが哀悼のうちにいつの間にか忘れられること、あるいは決意のうちに忘れること、私自身もいつか世界に対して一個体であることが<わたし>を作るのである。<わたし>とは何かが得られなかったことの残滓である。アランもこんなことを言っていたような気がするが、歯を食いしばって「幸せになる」と宣言する以外の生き方はないのだ。知っている人は知っているごく単純な原理だが、このことを説得力をもって言える人がどれだけいるだろう?喪失が自分を作っていることに失望しつつ、それでも幸せになる方法を選び続ける以外にできることがあるだろうか。
多くの作品はせいぜい最初の回復だけしか描かない。多くの物語はシンジに「何でみんな、こんなに優しいんだよ!」と言わせた時点でエヴァに乗せてしまうだろう。コミュニティへの回復を意味するからである。しかし、コミュニティへと回復することは、失われた以降の<わたし>を獲得することではない。シンジが喪失と決別するまでの時間をきちんと確保することに、作り手の誠意を強く感じる。卓越した、素晴らしい作品であった。
ありがとう、エヴァンゲリオン。
(追記)随分昔に書いて非公開にしていたみたいなのだが、ずっと似たようなことを考え続けているんだな、と思ったので公開してみた。
焼肉が食べたい…!!