「塩田千春展:魂がふるえる」はやばかった
六本木は鼻持ちならない気取った街だ。街を歩いているだけで「人として生まれたからには一角の人物になるべきなのだ」という気分になってくる。これは私のような哲学科の学生にとっては非常に危険であろう。哲学などという金にならない営みは明日にでも辞め、IT系スタートアップで働かねばという気がしてくるからだ。
しかし、私たちはこのような危険を冒してでも六本木に行く必要がある。塩田千春展を観るために。
『塩田千春展:魂がふるえる』はやばかった。
「魂がふるえる」だなんて副題、少々大仰すぎやしないか、と思っていた。「観覧者の魂をふるわせるだけの大作を準備した」という塩田千春の自信の現れかと思っていたのだ。しかし、それは間違いだった。この副題は彼女が魂をふるわせた瞬間を再現したという意味だったのではないか。
<私>の外延はどこまでだろう。今日ではこの問いをめぐる状況は、非常に複雑な様相を呈している。例え物理的な条件に限定したとしても、おそらく回答には個人差が出る。皮膚までが<私>だろうか。衣服も自己表現と捉えれば<私>ではないだろうか。あるいは、自分の部屋は誰にも侵略されない空間は<私>であると感じる人もいるのではないか。
塩田千春にとって、<私>はおそらく空間にまで広がっている。
塩田千春展で準備された全てが、塩田千春にとっての<私>なのだ。
それはおそらく奇妙な感覚なはずだ。私たちは誰かの家を訪れたとき、部屋の様子を見て、ソファに触れて、芳香剤の匂いを嗅いで、時には家主一押しのコーヒーを飲んだりして、そうして誰かの空間を把握する。他方、塩田千春の空間では、何にも触れず嗅がず味わうこともなく、ただ視覚のみで彼女の中にある<私>に触れることができる。そこにあるのは縒り合わされた糸だけにも関わらず、塩田千春という個人にとっての魂のふるえがどういうことなのかが分かるのだ。
六本木ヒルズ森タワー53階の広大な空間が全て、塩田千春が魂をふるわせた瞬間に満たされている。この空間に立ち会える幸運は筆舌に尽くしがたい。
ちなみに現実的なことを書いておくと、今回の美術展では写真の撮影が許可されているので、静かな美術館に慣れている方にとっては少しうるさい空間に思えるかもしれない。しかし、最初は気になっていたはずの周囲の音がいつの間にかフェードアウトして、彼女の空間にのめり込んでいっている、その作用が私にとっては面白い仕掛けのように思えた。そこまで彼女が計算していたのだろうかと思いを巡らせるのも悪くないのではないか。
興奮に任せて書きなぐってしまったため正確でない表現があるかと思うが、美術の専門的知識もないど素人の意見だと思って許してほしい。
森タワーは夜に行くと夜景が綺麗なのも見所かもしれない。
本当はバスキア展と同時に行こうと思っていたのだけれども、バスキア展はすでに閉館してしまっていた。またあの六本木に行かなくてはならないのかと思うと少し憂鬱ではある。
焼肉が食べたい…!!