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またどこかで、遠い記憶が揺らめき

 随分とゆっくり歩いてきた気がする。自分以外に歩いている者などいない心細い山中のアスファルトの上に立って、それでも別に構わないと楽観的に強がりつつ、いま来た道を振り返った。宿の人に頼めばバス停まで迎えに来てくれるのだけれど、急ぐ理由はどこにもないからと意地を張った。八月の終わりだった。山あいの道には、まだまだ暑さがついて回る。道路の両脇は一面、背の高い木が生えていて、日差しが遮られるのが救いだった。体力がないせいでどうしても歩みは遅くて、その日の旅館への道筋には、否応なく、緩やかな時間が流れていた。

 栃木に行こうと思い立ったのは、なんともちぐはぐな理由からだった。愛知の生まれで、大学からは京都で暮らしていたこともあり、北関東のあたりにはどうも疎い。群馬や茨城には以前、鉄道旅で訪れたことがあったが、栃木は東北新幹線で一度通過しただけ。その夏ちょうど東京で用事があり、せっかくならついでにどこかに寄っておきたい。そうすると、栃木は東京から程よい距離なように思えた。
 日光をはじめとして、栃木はどこも魅力的には違いなかったのだけれど、そのときは、どうしても静かな場所に行きたかった。日々が摩擦を起こしているようで、聞こえてほしくない言葉が嫌でも耳に入ってくる。山籠もりは到底できそうもないが、たった一晩だけでも自然の安らぎの中に身を置きたかった。あちこち調べてみると、那須塩原の山中に温泉旅館がある。地図を見ると、その旅館は川沿いに建っていて、まわりには民家もない様子だった。ここならさぞ静かだろうとあたりをつけて、栃木行きが決まった。
  
 東京駅から在来線に乗り、たしか宇都宮で乗り換えて、那須塩原まで。

乗り換えのホームにて。

 首都圏の鉄道には明るくない。大宮を過ぎてしまうと、あとの駅は車内アナウンスを聞いても、まるで位置がわからない。

関東を北上する列車に乗って。
他に乗客は少ない、夏の終わり。

持ってきた文庫本の小説を読み終えると、特にやることもなくなってしまって、流れる車窓を眺めていた。よく晴れた、気持ちのいい天気だった。沿線の田んぼの稲は、最初のうちは青々しかったのに、北上するにつれて気づけば少しずつ黄色みがかった
稲が増えてくる。陽の光に照らされて、一面がまぶしい。秋がちゃんと待っているみたいで、頼もしかった。

北関東に入ったあたりだろうか、車窓が変わってきた。

 那須塩原駅は、小奇麗でなかなか立派な駅舎だった。そのせいかなんだか緊張してしまい、遠いところまで来てしまったと実感が湧いてきて、心細かった。昼時でバスの時間まで一時間以上はあったから、駅前の「平成」という店名の食堂に入った。窓際の席に座って注文を伝えると、店員の女性が「電車やバスのお時間は大丈夫ですか」と親切に確認してくれた。彼女は、忙しく注文を取りに回っていて、他の客にも同じことを訊いていた。たしかに、呑気に料理を待っていて目的の便に乗り遅れたらどうにもならない。列車にしてもバスにしても、本数は決して多くはない駅だから、そんな駅前で営んでいる店側の配慮に違いなかった。 近くの客が瓶ビールを二本飲む間に、わたしは天ざるをゆっくりと食べた。それにしても、「平成」という店名をつけるからには、なにかしらあの時代に縁や思い入れがあってのことなのか、などと蕎麦を啜りながら考えた。

 1998年。つまりは平成十年に、わたしは生まれた。平成の空気感のようなものが、薄っすらと記憶にある世代かもしれない。昔、かじりつくようにして番組を観た、小さくて重たいブラウン管のテレビは画質が悪かった。わたしが幼い頃に母親が乗っていたのは、今はもう走っているのを見かけない古い日産の車で、出かけるときにはカセットテープで音楽を流していた。小学校から帰って来て、夕方、メモ帳にびっしり書き込まれた友人の家の電
話番号を探し、ダイヤルを押すときの緊張感がなぜか好きだった。その家の大人が出ると、誰しもが優しい声をしていて、友人を電話口に呼んでくれた。そんなひとつひとつは、平成とはなにも関係ないと言われれば、たしかにそれまでだけれど。
 少し前に実家のアルバムの写真を整理していたら、おそらく五歳かそこらの自分の姿を見つけた。平成十年代の前半。フィルムカメラで撮ったのか、淡い色だった。わたしは、海沿いのホテルの部屋で、湯呑を持ちながらカメラの方を向いている。背景はぼやけているが、海が見えるのだろう。愛知の海は汚い。とても海水浴に適しているとは思えない。それでも、浜辺はよく賑わっていた。ホテルの売店で買ってもらった赤い自動車のミニチュアは、
旅行後どこかになくしてしまって、淋しかった。
 思い返すと、あの当時が、自分の人生の中で、もっとも温かみに満ちていたように感じる。そのことが単に個人的な問題なのか、時代の傾向みたいなものだったのかは、はっきりとしない。

 天ざるを食べながら、意識が昔へと遡ってしまったようで、なんだかおかしかった。バスの時間が近づいていたから、代金を払って外に出た。那須塩原の駅から旅館の最寄りのバス停までの便は、一日数本しかない。数人の乗客を乗せて、わたしの乗るバスはゆっくりと出発した。午後一番のバスだった。窓から光が流れ込んできて、車内に充満する。
 バスに乗っていたのは、だいたい一時間くらいだった。最初のうちはどこにでもあるような郊外の町を走っていたのに、油断するといつの間にか田園風景の中だったりする。バスはそのまま山道に入った。いつからか、脇には川が見え始めた。バスは川に沿って蛇行していく。ちらほらと川遊びをしている人たちの姿もあった。木々はまだ青かったが、秋になればそれはそれで違う世界になるはずだと思った。
 塩原街道を進んで行き、個人商店がいくつか並んでいる道路沿いのバス停で降りると、山あいにある昔ながらの温泉観光地といった風情がする。わたしの宿は、塩原の温泉旅館が集まっている区域から少し離れた一軒宿だった。わたし以外にも、同じ歳頃の男がひとりそのバス停で降りていて、おそらく同じ旅館に泊まるのだろうと想像した。彼はその場から動く様子がなかったから、宿の送迎の車を待っているのだろう。自分以外のひとりの旅行客
と出くわすのは、珍しいことだった。
 バス停は、川沿いの道の橋のすぐそばにあった。ここから旅館までは、橋を渡って向こう側に一キロと少し歩けば着く。橋の真ん中から周りを眺めると、川にへばりつくようにして、家が何軒も建っている。窓を開ければ、すぐ目の前は川、そんな暮らしが営まれていることに目を見張った。

橋の上から、川べりの家を眺める。

 キャリーケースを転がして歩き始めると、ゴロゴロという音が足元から響いてくる。なだらかに舗装された道ではないし、木の枝などがそこらに落ち
ているものだから、歩きづらい。ときどき、音が変な風に跳ねて、ケースが壊れるんじゃないかと心配になる。すぐに、目当ての旅館まで何キロかを知
らせてくれる古びた看板があった。「明賀屋」というのが、その日の宿だった。

川沿いをぴったり歩いているかと思えば、橋を越えることもある。足を止めると、水の流れる音だけが聞こえた。数時間前まで東京の喧騒の中にいたとは思えなかった。改めて考えると、列車とバスと徒歩でここまでやってきたのは、なかなか大変なことに感じる。ようやく精神の方が身体のいる場所に追いついたのか、深く息をすると、現実感が伴った。

川が蛇行する山道を歩く。

  後ろから、何台もの車に追い越されるようになった。旅館の送迎らしきバンも通って行った。歩いているのはわたしだけだった。 その年、明確な意思もなく、にもかかわらず周囲の心配を押し切って大学院に進んだ。いろいろな言葉が、ほとんど一方通行に投げかけられた。いくつかの言葉は残り、いくつかの言葉は過ぎ去っていった。誰かしらに不思議そうな視線を向けられながらなにかを言われる毎に、わたしは寂しげに微笑んで、言い訳めいたわけのわからないことを口ごもるばかりだった。 また一台、ものすごいスピードで、車がわたしを抜かしていく。誰かと比べて、勝ちとか負けとか、先とか後とか考えるのは、いつかを境にやめてしまった。それでも、友人たちの顔がときどき、頭に浮かぶ。それぞれに立派な彼らのことを想いながら、わたしはひとり、旅館に続く道を歩いた。 度々、ふと後ろを振り返ると、そこで構成されている景色はいま来たアスファルトの道と、生い茂った暗い木々なのだが、毎回微妙に違った様子を見せる。似ているようでも、異なっている。同じことばかり繰り返していて、ああ、自分は駄目だなあと落胆しながらも、だからと言って、ずっと同じ位置に留まっているわけでもないと信じたい。異なって見える光景のほとんどは、失敗だったのかもしれないけれど、それでも、自分で道を進んでいくのでなかったら、他にどうしたらいいのか。

 途中で、環境庁の標識があった。あ、ここでも、平成とつながっていると思った。後に調べてはっきりわかったことだが、環境庁が環境省へと変わったのは、2001年だった。つまり、この標識は、それ以前に設置されたことになる。塗装はところどころ剥がれていて、色はくすんでいたが、「鳥獣保護区」とかろうじて読めた。さすがにそれほど遠い記憶は、当然、わたしは持ち合わせていなかった。その当時の空気感を身をもって味わえなかったことが、口惜しい気がする。環境庁の標識は、その時代を経ながらも、なにも変わっていなさそうな山中で、変化には関係ないという風にして、ゆっくりと朽ちている。

静かな山道にて。

ここまで来ればそろそろ着くだろう、というところでまた、旅館への道程を教える看板があった。今度のは、距離ではなく、矢印と共に「あと少し」と書かれている。具体的な数字よりも、曖昧な言葉の表現の方に安心してしまうのはどうしてだろうか。あと少し歩けば、と思うと気持ちがほぐれた。

まだ夕方前だが、木々に覆われた道は暗い。
看板の光が、妙に優しい。

明賀屋旅館は、山中にあるには立派過ぎるほど大きな建物だった。宿泊部屋や温泉のある本館と、隣に渡り廊下で繋がっている荘厳な洋館があった。太古館と名付けられた和洋折衷の建築は、戦時中には疎開に使われたらしい。本館の玄関脇には、その日の宿泊者の名前が連なっていて、わたしの名前もちゃんとあるのだが、随分と多くの客が泊まるようだった。受付で諸々の話を済ませて、係の人間に、ついでに隣の洋館について訊いてみた。

この日の宿に着いた。
太古館

「あの建物はいつできたんですか」
「たしか、昭和八年ですかね」
 そう言われて、頭の中でなんとか年表のページを繰るけれど、まるでぴんとこない。
「とすると、戦前ですね」
「ええ、それにしても、洒落てるでしょう」
 たしかに、クリーム色の壁や半円形の窓がさっぱりとしていて洒落ている。しかし、いきなり昭和一桁の話が出てきて混乱してしまう。那須塩原の駅前の食堂から、道中の標識と徐々に古い時を旅してきたわけだが、目的の宿でかなり時代を遡ってしまった。

 改めて見ても、疎開先というイメージからは離れた、端整な洋館だった。山の中だから疎開にちょうどいい場所だったのだろうか。いずれにしてもうまく想像はつかなかったが、遠い場所で、遠い記憶が、わたしの中で結びつこうとしていた。それは、形の合わないパズルのピースを隣り合わせにするような記憶の連鎖だった。 
 
 わたしの生まれた家のすぐ裏手は、ちょっとした森になっている。その森の陰に防空壕があった。子供の時分に、恐る恐る中を窺った記憶がある。まわりの大人たち、曾祖母や曾祖父は、防空壕について幼いわたしに何も語らなかった。あまり思い出したくない暗い日々が付き纏うからか、子供に聞かせて楽しい話ではないと考えていたのかは、わからない。家の前には一面田んぼが広がっていて、こんな穏やかな土地にどうして、と後になって疑問に思ったけれど、少し離れた街の中心部では戦前から産業が盛んで工場が多くあったという話を、いつだったか聞いたことがある。なんにせよ、彼らはわたしに優しい笑みを見せてくれるばかりだった。

 
 本館の客室に案内されて荷物をほどくと、溜まっていた疲れが押し寄せてきたが、畳の部屋も、そもそも旅館に泊まるのも久しぶりで、おかげで、ほっとする。部屋は、親戚の家のちょっとした和室の客間を連想させた。広縁の空間には、椅子と机がなかったのが残念だった。窓からの景色は、一面木々に覆われて満足に見られなかったが、部屋は広々としているし、緑に囲まれるのも贅沢な気分になってきて十分だった。ひとりの旅だと、こうした時に気ままで楽だと思う。

ゆったりとした川べりの部屋にて。

 早速、浴衣に着替えて、風呂に向かった。内湯で身体を洗って、露天風呂へ。この旅館の露天風呂は、川沿いに作られていて、急な階段を下っていく必要がある。本館から外に出る階段は、以前使われていた自炊棟に繋がっている。白い板の壁をした、木造の四階か五階建ての古い建物だった。露天風呂は、その棟の下にある。かつては農閑期に数週間、農家の方が自炊をしながら湯治をしていたそうだ。

木造の建物が目を引く。

 農家に関連してか、階段は八十八段らしい。この数字はもちろん、漢字の米に由来している。階段の途中の張り紙に、そう書いてあった。それ以上のことはわからない。どこから農家の人々がやってきたのか、いつの時代の話なのか、旅館の人に尋ねておくべきだった。なんにしても、わざわざ階段の段数を調整するとは気が利いている。造るとなったら大変な作業だろうと思いながら、足を踏み外さないように、恐る恐る暗い階段を下りていった。

 そこは、川の目の前だった。湯舟は四つあった。川の水面と湯の水面の境界が、溶け合っているかのようだった。

湯が川へと流れていく。
湯に浸かる。木漏れ日と川の音。

山奥だからか、まだ八月と言っても浴衣を脱ぐと薄っすらと肌寒い。湯に浸かるにはちょうどいい気温だった。普段、脚を存分に伸ばして肩まで湯に沈めることがほとんどないせいで、たまに温泉に入ると、そのありがたみが身に染みた。湯舟の中では、目線が川の位置と同じになるものだから、気持ちのいい錯覚を覚える。聞こえるのは、流れる川の音だけだった。木の葉の重なりに光が差して、陽が少しずつ傾いているのがわかる。

 湯から上がると、今度は、階段を上っていかなければならない。下るよりも、体力を使う。階段は板張りで、こちらが動くたびに、文字通りミシミシと音を立てていて、下手をしたら踏み抜いてしまうんじゃないかと少し心配になった。

湯上りに階段を上っていく。

途中で、さすがにくたびれてしまった。湯から出たばかりで、少し眩暈がした。我ながら情けないと思いつつ、いくつか設置されている休憩用の椅子に座って、大きく息をついた。まだまだ続いていく階段を横目に、これから自分の足で登っていかなければならない人生の階段が、曖昧な形で頭に浮かんだ。すべての人に通ずる階段もあれば、極めて個人的な、自分のためだけに築かれた階段もあった。それらは、石造りであったり、コンクリートであったり、あるいは、木造だった。角度が急なものもあれば、緩やかなものもあった。その一つ一つを吟味するだけの余裕は、わたしにはなかった。
 どれくらいそうして休んでいたのかわからないが、老夫婦がわたしの前を通り過ぎて、階段を登っていった。夫の方が先にどんどん上がっていく。妻の女性は、よいしょ、よいしょ、と何度も繰り返し口に出しながら、夫に遅れて、一段一段進んでいった。彼女とわたしは目が合って、軽く会釈をした。見ず知らずの老夫婦が共に歩んでいけるようにと、想うほかなかった。よいしょ、という健気で、それでいて力強さも含まれるような言葉に揺り動かされたのか、若い自分がいつまでも動けずにいるのがだらしなく感じたのか、彼らが去ったあと、わたしもようやく腰を上げた。

 ひどく喉が渇いていたし、湯上りに飲むビールはなによりも美味しいのだから、館内を動き回って自販機を探し、缶ビールを買って部屋に戻った。早速、窓を開けっぱなしにして窓辺に座り、ビールを流し込んだ。冷たい液体を飲んでいるのに、身体の芯が温かくなる。それは、擦り減った日常では得られない、ひと時の開放感の中にのみ宿る温度だった。

 旅館での時間は、思いの外早く過ぎる。とくになにをするわけでもなく、ビールのグラスを傾け、時折本を開いたりしていれば、すぐに夕食に呼ばれた。献立は、いろいろな品があって満足だった。やはり川沿いの宿だからか、鮎の塩焼きがあって嬉しい。しかしわたしの悪い癖で、こうして旅先の宿でひとり、料理を前にしていると、得体の知れない寂しさが込み上げてくる。

年々、旅に出ることが億劫になってきた。この栃木への旅も、相当に重い腰を上げたのは確かだった。ひとり旅が苦手になったというより、心許ない生活の上に立っていて、それでいて普段と違う場所で違う時間の中にいるという状態が、不安を掻き立てるのだろうか。結局、どこにだって行きたいと同時に、どこへも行きたくない。「いま、ここ」に自信がないからに違いなかった。 夕食後、今度は瓶ビールを買って飲んだ。

テレビもつけずにいると、なにやらざらついた音しか聞こえない。はじめ、部屋の換気扇の音かと思っていたが、旅館の脇を流れる川の音だとわかった。そこでは、水の不規則な音しか聞こえてこない。常日頃うるさいと感じている車の走行音とは、無縁の空間だった。山間の宿なのに、夏の終わりだからか、虫の声も届いてはこなかった。ビールをグラスにつぎ、水の音に集中する。自分の求めていた類の静けさが与えられていた。
 
 夜が深まって、もう一度軽く湯に入ってくると、アルコールも少し回ったおかげか、眠気が降りてきた。部屋の電気を消して、布団にもぐりこんだ。その晩だけは、なにも考えたくなかった。ぼんやりと過ごした一日だった。やるべきことだとか、買うべきものだとか、気を配らなければならない日常の事柄はいくつもあるはずだったのに、それぞれの輪郭がぼやけていき、うまく掴めない。わたしはすっかり、ふやけてしまった。それを許してほしいと、誰でもない相手に頼んで、眠りについた。川の音を遠くに聞きながらまどろんでいく。夢を見たかはわからない。遠い記憶とやさしい音が、知らない場所で絡み合っていったことしか、はっきりしない。  

 朝起きると、昨夜とは音の様子が異なっていた。窓を開けると、やはり、霧雨が降っていた。朝食を食べながら、テレビのニュースを見ると、台風十一号が、列島の南に発生しているとのことだった。秋雨前線の影響もあって、次の日からは本格的な雨になったことを、いまでも覚えている。



*このフォトエッセイは、2023年1月の文フリ京都にて初頒布された、大阪大学感傷マゾ研究会(@kansyomazo)の会誌『青春ヘラver.6「情緒終末旅行」』(本誌はBOOTHにて購入可: https://kansyomazo.booth.pm/)に寄稿したものである。今回の記事では、本誌には掲載しなかった写真とキャプションを大幅に追加し、note用に文章の若干の修正を行っている。


 この栃木への旅は、ちょうど1年前の8月の末のことだった。こうして振り返ると、たった1年でも、随分と多くのことが変わった気がする。今年の夏は、どこへも旅をしていない。最近では、夜にはもう秋の気配がする。

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